第19回 大山詣

 6月末は山開き。江戸っ子たちは、講中(こうじゅう)で大山詣(おおやまもうで)へと出かけた。
 大山とは、神奈川県にある標高1253メートルの山である。江戸からは富士山や大山を望める地がおおくあり、たとえば駿河町(するがちょう)の三井呉服店からは、富士山の手前に大山が望めた。
 大山詣は、江戸人にごく親しまれた信仰である。旧暦の6月27日の山開きから7月17日までの盆山の期間に、大山へ登るというものである。享保年間(1716~35)以降、幕末にかけて江戸人の信仰熱が高まり、一種のレジャーをかねた信仰となった。もちろん富士詣にも行ったが、気軽に登れるので大山詣は人気があった。
 参詣コースは、東海道でも表街道・裏街道(旧の東海道)とあった。帰りに江の島参詣や鎌倉見物をするなど、3~4日の小旅行といった趣(おもむき)で、江戸っ子たちはいろいろ楽しんでいたようだ。
 大山詣の様子は、落語の「大山詣」でも知られている。この噺(はなし)を高座にかけることもあった古今亭志ん朝は、若い時、雪駄履(せったば)きのままで大山に登って困ったという逸話が伝わっている。
 江戸の人々は大山詣に出かける前に、隅田川で水垢離(みずごり)をした。両国橋の袂(たもと)にある水垢離場で、「懺悔懺悔(さんげさんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)…」と唱えながら、道中の無事と悪病の退治を願ったのである(図版参照)。そして、「奉納大山石尊(せきそん)大権現」と書いた納太刀(おさめだち、奉納する木太刀)を持って出かけた。
 健脚な人たちは、大山の山頂にある阿夫利(あふり、雨降りのなまりと伝えられる)神社まで詣で、ここに納太刀を奉納して、他の講中が納めた別の納太刀をもらって帰る。だが、体力のない手合いは、中腹にある石尊不動堂で終わることも少なくなかった。
 女だけの大山詣の講中もあったようで、その様子が黄表紙(きびょうし)に描かれている(『通人寝言(つうじんねごと)』享和2年〈1802〉刊)。女たちも水垢離をして出かけた。
 江戸の戯作者(げさくしゃ)・十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の黄表紙『怪談富士詣(かいだんふじもうで)』(寛政12年〈1800〉刊)には、見越入道(みこしにゅうどう)を頭(かしら)に、化物たちが大山詣をした足で富士参詣をする。途中、足柄山(あしがらやま)に住む坂田金時(さかたのきんとき)に出会ったり、雷に遭遇しながらも参詣を無事に終え、借金や貧乏神を追い払うという話である。
 大山詣の頃は、お盆の支払いの決算期にあたり、借金取りから逃れて山へ行く人もあったらしい。

隅田川での水垢離の様子。奉納の木太刀をささげて、講中の人々皆で川に入り、「懺悔懺悔、六根清浄…」と唱えた。手前にわらしべを持った人がいるが、1回唱えるたびに1本ずつ川に流した。
(『通略三極志』安永9年〈1780〉刊より)

講中…神社・仏閣への参詣などの目的で作られた信者の団体。

古今亭志ん朝…1938~2001。落語家。5代古今亭志ん生の次男。江戸前の古典落語の名手。TV・映画・舞台でも活躍した。

水垢離…神仏に祈願する時、冷水をあびて汚れを除き、心身を清めること。

六根清浄…仏語。眼・耳・鼻・舌・身・意の6つの感官が、汚れを払って清らかになること。

十返舎一九…1765~1831。江戸後期の戯作者。ベストセラー『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』をはじめ、黄表紙・滑稽本・噺本などさまざまなジャンルにわたり作品を残した。

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