第20回 七夕


 今年は、皆既日食(かいきにっしょく)や金星が太陽の黒点(こくてん)に見えるなど、天体ショウで沸いている。ひょっとしたら、七夕の天の川観測も話題になるかも知れない。
 七夕の日はたいてい天気が悪く、夜空が見えないことがおおいが、これにはわけがある。
 江戸時代の七夕は、旧暦(太陰暦)の7月7日。これは、現代の新暦(太陽暦)にすると、だいたい8月の上旬であった。それをそのまま、新暦の7月7日の行事として受け継いだものだから、この日はまだ梅雨があけきらず、肝心の天の川が見えないことがあるのだ。
 七夕は、牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)の2つの星が、1年に一度、7月7日に天の川を渡って再会するという中国の古代伝説にちなむ。そして、中国で女性が裁縫の上達を願った「乞巧奠(きっこうでん)」という行事と、日本固有の織女を信仰する「棚機(たなばた)」(はたを織ること、織る人)とが習合(しゅうごう)したものである。この日に書道や技芸など、いろいろな願いがされる風習も、乞巧奠に由来する。
 もともと宮中の女御(にょうご)の年中行事だった七夕は、江戸時代、幕府の大奥や大名などの奥向きで流行し、それがしだいに民間に広まっていったといわれる。
 江戸市中では、七夕が近くなると、笹竹(ささたけ)売りや短冊(たんざく)売りが町中を売り歩き、夏の風物詩となっていた。寺子屋では、寺子のたちが書道上達の願いを短冊に書いて笹竹に結わえたものだった。今でも少なくなったとはいえ、笹竹にいろいろな願い事を書いて飾っているのを街で見かけることがある。
 図版は、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)画の『絵本あまの川』(寛政3年〈1791〉刊)に描かれた七夕の飾り棚。短冊のついた笹竹を両端に立てた棚に、糸の束や着物をかけてお供え物をし、手前には琴が飾られている。空には天の川と星が。夕涼みがてら、女性や子どもたちがお祈りをしに集まっている。
 桜川慈悲成(さくらがわじひなり)の黄表紙(きびょうし)にも、七夕が登場する。「天筆和合楽(てんぴつわごうらく)」(書きぞめに書く成語)をもじった『天筆阿房楽(てんぴつあほうらく)』(天明8年〈1788〉刊)が、それである。
 「物忘れのお守り」を唐人(とうじん。中国人)から授かった浮世夢介(うきよゆめすけ)は、諸人にこのお守りを与えて回る。勘当したことを忘れてしまった親のもとに息子はもどり、人々は金の貸借りもすっかり忘れてしまう始末。
 ある日、大名の殿様の年忘れの会に呼ばれた夢介が、屋敷で皆にお守りを与えると、皆で年忘れの会だということを忘れてしまう。御殿(ごてん)女中たちは、七夕様やお雛様の祭りをてんでんに繰り広げて大騒ぎ。
 それに喜んだ殿様からご褒美(ほうび)をもらった夢介は、勇んで自宅へ帰ろうとするが、自宅がどこか忘れてしまう。近所の家に飛び込み、若い者に連れられて家に帰ったところで、女房に声をかけられて夢からさめる夢介であった。

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『絵本あまの川』(寛政3年〈1791〉刊、早稲田大学図書館蔵)より。
牽牛と織女…牽牛星と織女星。牽牛星はわし座の首星アルタイル、織姫星は琴座の首星ベガの漢名。夏の空に天の川をはさんで明るく輝く。
喜多川歌麿…1753~1806。江戸中期の浮世絵師。美人画の第一人者。
桜川慈悲成…1762~1839?。江戸後期の戯作者。飾り細工師のかたわら幇間(ほうかん、太鼓持)もした。落とし噺(落語)を開拓したひとりで、現在の幇間芸の桜川家の中興の祖。『天筆阿房楽』は、落語の「堀の内」「粗忽(そこつ)の使者」などの噺(はなし)の原話となっている。

第20回 七夕
そのことば江戸っ子だってね!? ライン