第21回 江戸の花火

 夏は花火の季節である。夏の夜空に打ち上げられる花火は、最近では全国各地で行われるようになり、夏の風物詩となっている。
 江戸の夏といえば、隅田川の花火である。
 図版は、江戸後期、天保5年(1834)刊行の『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』に描かれた両国橋の納涼花火。隅田川に浮かべた小舟から花火が放たれ、まわりには見物の屋形船が集まっている。両国橋も見物人であふれている。こんなふうに江戸人たちは納涼花火を楽しんだようだ。
 ちなみに、江戸の花火の大きさは今よりもずっと小さかった。空中高く広がる大輪の花火は、明治になってからである。着火起爆剤の塩素酸カリウム(マッチの原料など)が輸入されたことで、花火が飛び散る技術革新がもたらされた。
 さて今回は、江戸の花火の起源などについて、巷間(こうかん)にさまざまなことが伝わっているが、じつは、それらはよくわかっていないことがおおいという話。かの江戸考証研究家の泰斗(たいと)・三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)も、隅田川の納涼花火については、正確なことが資料に残っていないと嘆いていた。
 隅田川の納涼花火のはじまりについては、享保17年(1732)5月27日、幕府が全国の疫癘(えきれい。コレラ)退散の慰霊祭をした際に、花火を打ち上げたことからだと伝わっている。だが、幕府の将軍の日記『徳川実紀(とくがわじっき)』には、この行事についての記載はない。
 かつて隅田川は氾濫(はんらん)を繰り返していた川で、現在のようなおだやかな流れになったのは、承応3年(1654)の利根川の瀬替えが完成してからであり、納涼花火もその頃からさかんになったらしいが、享保17年は、それから80年もたってからということになる。
 また、この年の5月は閏月(うるうづき)だったので、どちらの5月だったのかも判然としない。この伝説は、幕末から明治にかけて捏造(ねつぞう)された可能性が高いと思われる。
 そして、江戸の花火屋と言えば、「た~まや~」「か~ぎや~」の掛け声でも有名な「玉屋(たまや)」「鍵屋(かぎや)」である。落語「たがや」のマクラでは、いつも玉屋ばかり声がかかるので、「橋の上玉屋玉屋の声ばかりなぜに鍵屋と言わぬ情(錠)なし」という狂歌(きょうか)が大田蜀山人(しょくさんじん)作と紹介されている。
 玉屋が、鍵屋6代目から独立したとされる通説がある。
 これは、12代鍵屋弥兵衛が三田村鳶魚のインタビューに答えたものとされるが、玉屋の独立については、安永年間(1772~80)とも文化年間(1804~17)とも諸説があり、怪しい。というのも、宝暦元年(1751)刊行の江戸の案内書『江戸惣鹿子(そうかのこ)名所大全』に、すでに玉屋が出ているからである。
 玉屋は、天保14年(1843)4月17日、丁稚(でっち)が火薬調合に失敗して自火を出し、江戸を追放されてしまう。玉屋の商売の開始年代から江戸追放の処罰をされるまでの経緯は、江戸町奉行の刑事判例集『御仕置例類集(おしおきれいるいしゅう)』にくわしく記されていたはずだが、残念ながら、天保年間(1830~43)のものは関東大震災で焼けてしまった。
 その一部の写しが『藤岡屋日記』に玉屋処罰のことは見えるが、玉屋の開業時期についての詳細な記述はない。
 はたして、玉屋は鍵屋から独立したという話についても、その真贋(しんがん)はわからないのである。

両国橋の納涼花火の様子。『江戸名所図会』(天保5年〈1834〉刊)より。手前の両国橋西詰には、芝居小屋や見世物小屋が掛けられ、土弓場などの遊興場もあり、大変賑わっている。

『徳川実紀』…江戸後期、幕府編纂の史書。文化6年(1809)起稿、天保14年(1843)完成。家康から第10代家治(いえはる)までの将軍ごとに詳細を記述。

利根川の瀬替え…かつて入間川(いるまがわ)・荒川・利根川・渡良瀬川(わたらせがわ)・鬼怒川(きぬがわ)などが隅田川に集中し、氾濫しながら江戸湾に流れていた。元和7年(1621)から利根川の浚渫(しゅんせつ)工事が本格化。利根川や渡良瀬川などを銚子口から太平洋へ直接流れるように改流。承応3年(1654)完了。以後、隅田川の氾濫はなくなる。

三田村鳶魚…1870~1952。明治~昭和の随筆家。江戸風俗・文学・演劇の考証家。武州八王子(東京都八王子市)生まれ。『未刊随筆百種』23冊編纂のほか、40余の著作を刊行。

閏月…太陰暦(旧暦)では、月齢を基準にして1年を計算するので季節とのずれなどが起こる。それを是正するために何年に一度か1か月(閏月)増やして13か月とする。

大田蜀山人…大田南畝(おおたなんぽ)の号。1749~1823。江戸後期の狂歌師、洒落本・滑稽本作者。幕府に仕える下級武士でもあった。

『藤岡屋日記』…江戸後期の日録。文化元年(1804)から慶応4年(1868)までの江戸の出来事をさまざまな記録から集めて編年で筆記したもの。編者は、上野国(こうずけのくに。群馬県)藤岡出身の須藤由蔵。江戸に出て神田で古本屋を始め、江戸市中の情報をまとめて諸藩に売った。

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