第24回 重陽の節句

 9月9日は重陽(ちょうよう)の節句である。
中国では奇数を陽数、偶数を陰数と考えていて、その陽数の最大数である「9」が重なる日を佳節(かせつ)として「菊花節(きっかせつ)」と呼び祝ったのが発祥で(もちろん陰暦での9月9日である)、陽の数9が重なるから「重陽の節句」と呼ぶのである。日本では、古くから宮廷行事として観菊の宴などが催され、やがてその風習は庶民にも広まった。
 江戸時代、重陽の節句に菊の祝いが行われたことは有名であるが、この日に雛祭(ひなまつ)りが行われたということはあまり知られていないので、まずそれから紹介しようと思う。
 江戸の庶民のあいだでは、9月9日のことを「後(のち)の雛祭り」と呼んで、3月3日の雛祭りのように、雛人形を飾って祝う風習があった。おそらく、3×3=9ということで、桃の節句と重陽の節句を重ね合わせたものだろう。
 図版は、重陽の節句に雛段を飾って「後の雛祭り」をする様子。曲亭馬琴(きょくていばきん)合巻(ごうかん)『相馬内裡後雛棚(そうまだいりのちのひなだな)』(文化8年〈1811〉刊)の物語の結びにあるものだ。馬琴の小説類はリアリズムであるから、そうした風習が江戸であったことを描いたと思われる。
 さて、中国の田園詩人・陶淵明(とうえんめい)は菊の花と酒を愛し、江戸時代の日本では、この日に菊酒を楽しむのが風流人のたしなみとなっていた。江戸では、菊人形などの菊細工が盛んになり、重陽の節句に菊細工の興行などのイベントが行われていた。しかし、それは江戸も後半のことで案外と歴史は浅い。
 菊細工は、文化5年(1808)に、麻布狸穴(まみあな)あたりの植木屋が、菊の花で丹頂鶴(たんちょうづる)や帆掛け船の細工を作ったのがはじまりであるが、これはさして評判を呼ばなかったらしい。翌年の文化6年頃から、巣鴨(すがも)の植木屋たちが競って菊細工を作り、出品して興行を打ち、それ以来、巣鴨名物として評判になった。
 文化11年(1814)9月には、巣鴨の植木屋たち52軒が盛大な興行を打った。その案内書『巣鴨名産菊乃栞(すがもめいさんきくのしおり)』は、戯作界に隠然たる勢力をもつ烏亭焉馬(うていえんば)の手で刊行され、出品された菊細工の絵には、著名な戯作者たちが詠(よ)んだ狂歌や発句(ほっく)が添えられている。
 ここには、主宰者の焉馬の狂歌も見えるが、珍しい馬琴の狂歌も見られる。馬琴の戯作の師匠だった山東京伝(さんとうきょうでん)や弟の山東京山(さんとうきょうざん)式亭三馬(しきていさんば)も門下生とともに狂歌を詠み、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の名も見える(名前だけあって狂歌などは載らないが)。毛色の変わったところでは、焉馬が贔屓(ひいき)にしていた七代目市川団十郎も狂歌を寄せている。売れっ子戯作者たち総出の案内書であった。
 狷介固陋(けんかいころう)な馬琴は、親分肌で弟子たちの面倒見がいい三馬を毛嫌いすることはなはだだしかったけれど、ここでは呉越同舟(ごえつどうしゅう)している。

重陽の節句(後の雛祭り)の雛段。ススキや秋の花も飾られている。(『相馬内裡後雛棚』文化8年〈1811〉刊、早稲田大学図書館蔵)

曲亭馬琴…1767~1848。江戸後期の戯作者。山東京伝に師事して黄表紙(きびょうし)など書くが、のちに勧善懲悪の物語を描いた長編の読本(よみほん)を続々と刊行する。代表作『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』は106冊に及ぶ。

合巻…江戸後期、文化年間(1804~1818)以降、近代初頭まで流行した絵入りの草双紙(くさぞうし)の一種。従来5丁1冊であった草双紙を15丁または20丁で1冊とした。

陶淵明…365~427。中国東晋の詩人。不遇な官僚生活に見切りをつけて、「帰去来辞(ききょらいのじ)」を賦(ふ)して故郷に隠棲(いんせい)。田園生活や隠者の心境を詩に表した。

烏亭焉馬…1743~1822。江戸後期の戯作者。江戸本所(ほんじょ)の大工の棟梁(とうりょう)。落語中興の祖と呼ばれ、立川流(たちかわりゅう)の開祖でもある。

山東京伝…1761~1816.江戸後期の戯作者・浮世絵師。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)の第一人者。

式亭三馬…1776~1822。江戸後期の戯作者・狂歌師。日常生活を細かく描写した滑稽本(こっけいぼん)『浮世風呂(うきよぶろ)』『浮世床(うきよどこ)』が有名。

十返舎一九…1765~1831。江戸後期の戯作者。ベストセラー『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』をはじめ、多くの作品を残した。

七代目市川団十郎…1792~1859。歌舞伎役者。あらゆる役をよくこなした江戸末期の代表的名優。歌舞伎十八番を制定し、「勧進帳(かんじんちょう)」を創演した。

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