第28回 江戸時代に「お札」が使われていたら

 お金の話をもうひとつ。
 山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)に、天から小判や一分金(いちぶきん)がばらばら降ってくる挿絵がある(図版参照)。困窮する世の中を風刺して描いたものだ。もしも江戸時代に紙幣が使われていたら、天からお札がはらはら降ってくる絵になるのだろうが、紙幣ではどこかありがたみがない。
 江戸幕府が全国に通用する貨幣としてお札(紙幣)を発行したことはなかった。と言うと、慶応3年(1867)に幕府は藩札(はんさつ)と同じような金札を発行したではないかと言われそうだが、これは関八州(かんはっしゅう)で通用される金札で、ほとんど使われることなく終わっている。
 明治政府は、明治元年(1868)に太政官札(だじょうかんさつ)、翌年には民部省札(みんぶしょうさつ)などの政府紙幣をつぎつぎに発行する。現代の経済学の泰斗(たいと)ケインズが、「今日すべての文明社会の貨幣は、議論の余地なく表券主義的〈貨幣〉である」と説くように、近代国家は紙幣による名目貨幣化の道をたどっており、日本も明治政府になって紙幣が使用されるようになり、近代国家の仲間入りをしたわけだ。
 徳川家康が小判や銀貨を造って以来、日本は本格的な金属貨幣の時代を迎え、いろいろ曲折を経て、小判1両=金4分(ぶ)(1分金4枚)=銀60匁(もんめ)=銭4000文(もん)を基調にした交換レートで推移してゆく。しかし、家康が造った「慶長小判」が1両の品位(金の含有量)は84.29%だったのに比較し、万延元年(1860)に江戸幕府が最後に発行した「万延小判」は、56.78%(重量は5分の1以下)というひどい代物だった。まさに粗悪貨幣の発行であった。
 ところで、「慶長小判」の発行からおよそ百年後の元禄8年(1695)、勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)の荻原重秀(おぎわらしげひで)によって貨幣が改鋳(かいちゅう)され、「元禄小判」となった。その品位は57.37%まで落とされ(重量は同じ)、その後の貨幣改鋳も新井白石(あらいはくせき)の改鋳を除き、金の総量を減らして小判を軽量化して品位を落としてゆくばかりであった。
 この荻原重秀という人物、貨幣は瓦でも構わないし、悪貨だといっても紙幣よりはいいという考えの持ち主だった。とくに外国貿易の主取引貨幣だった銀貨の品位を落とし、これは果たして銀貨と呼べるのかどうかというほどの、じつに20%の品位の銀貨(80%は銅)を発行している。重秀の悪貨鋳造の裏には、最大の貿易国である中国の清王朝が銀取引を原則としながらも、銅不足に悩み、銅の貿易取引きも仕方なしとした足元を見すかすようにして銅の決済で済ませ、日本からの銀の流出を阻止したかった思惑が働いていたのではないかとも思われる。
 しかし、重秀は新井白石によって糾弾追放され、貨幣の品質は「慶長小判」に戻った。白石の経済理論は、家康が金貨を神聖視し、西欧でも金銀が珍重されていたことや、貨幣を良貨にして市場における数量を限定すると、貨幣の価値が上がり相対的に物価は下落するという、今日では荒唐無稽だと笑われそうなものであった。
 歴史に「もしも」はないが、重秀が追放されなかったなら、日本はヨーロッパ諸外国より一足先に、ケインズのいうところの表券貨幣(紙幣)の時代を迎えていたかもしれない。

寛政の改革で世の中が不景気で混乱した様子を逆に描く。これでもかと小判や一分金が降る中を傘をさして歩く人々。このあと、世の中は金で埋め尽くされてしまうと話は結ばれている。『孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)』(寛政元年〈1789〉刊、東京都立中央図書館加賀文庫蔵)より。

山東京伝…1761~1816。江戸後期の戯作者、浮世絵師。黄表紙、洒落本(しゃれぼん)の代表的作者。

藩札…江戸時代に諸藩が発行した領内限り通用する紙幣。領分札、国札ともいわれた。明治初年まで発行されたが、藩の財政難のため乱発されて混乱を生じ、明治4年以降、廃藩のため通用禁止となり、政府が新紙幣と交換した。

関八州…関東八州の略。相模(さがみ)、武蔵(むさし)、安房(あわ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)の8か国。およそ現在の首都圏。

太政官札…太政官会計局から発行された政府紙幣。日本最初の政府紙幣。金札で、10両、5両、1両、1分、1朱の5種類があった。10両、5両は明治8年5月末限り、1両札以下は明治11年6月末でいちおう通用禁止となった。

民部省札…太政官札は高額紙幣が多かったため、民部省通商司から発行された少額紙幣。2分、1分、2朱(しゅ)、1朱の4種類があった。明治11年6月末でいちおう通用禁止となった。

ケインズ…1883~1946。イギリスの経済学者。1930年代の世界大不況の経験をふまえた名著『雇用・利子および貨幣の一般理論』によって、革新的な経済学理論をうちたてた。

荻原重秀…?~1713。江戸中期の幕府役人。徳川綱吉の時代に才能を認められて躍進。幕府財政の窮乏を貨幣改鋳と増発によって凌(しの)ごうと、改鋳を繰り返して幕府の財政を立て直したが、飢饉(ききん)や富士山噴火などによって出費が重なり帳消しとなる。新井白石により糾弾を受けて失脚する。

新井白石…1657~1725。江戸中期の儒者、政治家。徳川家宣、家継に仕え、幕政を補佐。武家諸法度(ぶけしょはっと)の改正などの改革に尽力した。

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