第32回 大人の凧揚げ

 正月の楽しみが凧揚(たこあ)げだったというのも昔のことになりつつある。正月に凧揚げに興じた世代が高齢化しているからなのかも知れない。そういえば、一時期、三角翼の外国凧(ゲイラ・カイト)が流行したことがあったものの、竹と紙製の絵凧や奴凧(やっこだこ)と趣の異なるビニール製で形も違うところから、いつの間にか見ることもなくなった。
 ただし、凧が空高く上がる様子を天に昇る隆盛で商売繁昌と見立て、縁起物として凧揚げを楽しもうとする風習の残っている地方は、今もあるようだ。
 江戸時代も初期、慶安2年(1649)正月3日、子どもの凧揚げを禁止する町触(まちぶ)れが出されたことが、資料として残っている。前々から申し渡していた御法度(ごはっと)であるという町触れだから、慶安2年以前にも凧揚げが禁止されていたことは事実である。10年後の万治2年(1659)には、凧を商品として売ることも禁止している。だから、幕府はかなり本気になって子どもの凧揚げを禁止しようと考えていたようである。
 ではなぜ、幕府が子どもの凧揚げごときを禁止したのだろうか。その後の禁止の町触れを読んでゆくと、子どもたちが集まって騒動を起こすことや、ブンブンと唸(うな)る鳴り物を凧に付けて騒々しいというのが理由らしい理由であった。「静かな正月を迎えなさい」というわけで、幕府はなんだか年寄りじみた命令を庶民に下していたものだと思えてしかたない。
 寛延元年(1748)を最後に、禁止の町触れが見られなくなる。もう凧揚げは下火になったのかと思うと、そうではなく、子どもより大人のほうが夢中になって揚げるようになっていたのである。
 大田南畝(おおたなんぽ) は、大人のマンガ・コミックである黄表紙(きびょうし。草双紙ともいう)の評判記『菊寿草(きくじゅそう)』(天明元年〈1781〉刊)で、「草双紙と凧(いかのぼり)は大人の物になつたるもおかし」と述べている。大の大人が凧揚げに夢中になったのである。時はまさに田沼意次(たぬまおきつぐ) の時代、興味のあるものは、子どもの遊びでも大人がやる自由な時代でもあった。
 それが、幕末の天保14年(1843)正月の4日には、10日までの間、凧揚げや羽子板遊びを自粛し、松飾りも撤去するようにと幕府は命じている。先代十一代将軍・徳川家斉(いえなり) の泰姫(やすひめ)が逝去したのを理由に、「静かな正月を迎えなさい」というわけである。家斉といえば、側室40人、もうけた子女55人と伝えられる将軍である。その妾腹(しょうふく)の姫君の逝去で凧揚げに神経質になるようでは、その後25年で江戸幕府終焉を迎えるのも当然であろうと思われる。

【お知らせ】
本コラムの執筆者・棚橋正博先生が、NHKカルチャーラジオに1月から3月まで出演されています。テーマは「江戸に花開いた『戯作』文学」。NHKラジオ第2放送、毎週木曜日午後8:30~9:00、再放送は金曜日午前10:00~10:30です。

凧揚げに興じる大人たち。鳶(とんび)の凧と「聖」の字を書いた凧を揚げると、鳶を友達と思ってめでたい鳳凰(ほうおう)も飛んで来る。太平の世を皮肉った恋川春町(こいかわはるまち)の黄表紙『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』より。

大田南畝…1749~1823。江戸後期の狂歌師。別号、蜀山人(しょくさんじん)、四方赤良(よものあから)など。幕府に仕える下級武士でもあった。洒落本(しゃれぼん)や黄表紙なども書いた。

田沼意次…1719~1788。江戸中期の幕政家。明和4年(1767)に十代将軍家治(いえはる)の側用人(そばようにん)となり、安永元年(1772)に老中となる。積極的な膨張経済政策がすすめられた「田沼時代」は、江戸のバブル期ともいえる天下泰平の時代。

徳川家斉…1773~1841。江戸幕府第十一代将軍。一橋治済(はるさだ)の長男。天明7年(1787)将軍となる。田沼意次を排して松平定信(さだのぶ)を起用して、寛政の改革を行った。

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