第33回 蕎麦・うどん売り

 寒い夜には温かいものが食べたくなる。今は、お湯をそそぐだけのカップラーメンなどがあるからまったく困らないが、昔は、夜鳴きそばがチャルメラを鳴らして売りに来たものだ。そんなことをご存じの方はおそらく昭和も前半生まれの世代であろうか。
 蕎麦(そば)かうどんかは好みの分かれることころであるが、最近ではうまい讃岐うどんも手軽に食べられる店が東京にもできて、江戸っ子は蕎麦などとばかり言ってもいられなくなったようだ。
 今回は、江戸の蕎麦・うどん売りの話。
 江戸後期の黄表紙(きびょうし)に、蕎麦売りやうどん売りの屋台の絵が出てくる。屋台に風鈴を付けて鳴らしながら売り歩いたので「風鈴蕎麦」「風鈴うどん」と呼ばれた。図版では、右が風鈴うどん、その前を行くのは蕎麦屋の岡持ち(出前)。うどん屋と甘酒屋はぶつかりそうになって掛け声をかけてすれ違い、風鈴の音にあんまの笛も加わって、お江戸の夜道はにぎやかだ。
 蕎麦・うどんの歴史はとても古く、奈良時代にさかのぼる。蕎麦は冷害につよく荒地でも生育するということで関東など東日本でさかんに作られ、うどんは温暖な地方で耕作が発達してきた。そして蕎麦が、現在のように細長い「蕎麦切り」として食べられるようになったのは、江戸時代初期かそれ以前のことであった。
 江戸人が「蕎麦切り」を食べるようになったのは、寛文4年(1664)から、とよく言われるが、この定説は怪しい。幕末の随筆『守貞謾稿(もりさだまんこう)』に「或書云、二八蕎麦ハ寛文四年ニ始ル云々」とあり、同じく幕末の随筆『俗事百工起源(ぞくじひゃくこうきげん)』にも寛文4年と書かれていることから、これが定説になったようである。しかし、それより20年ほど前、寛永20年(1643)3月に出された地方の代官支配地に向けた町触(まちぶ)れでは、蕎麦切りやうどん切り、豆腐などは穀物の無駄づかいになるから(どうして穀物の無駄づかいになるか理由は不明だが)、それを商売として売ることを禁じている。ということは、その当時、田舎町でも蕎麦やうどんを売る商売があったということにほかならず、江戸ではそれより先に繁昌していたと考えて間違いない。
 江戸時代は、屋台で売り歩く「振り売り」は原則禁止されていた。寛文元年(1661)7月には、屋台の蕎麦・うどん売りなど、ようするに火を使う振り売りを禁止する町触れがはじめて出されているから、それらの振り売りは江戸の初期からあったものと思われる。それから20年か30年ごとに禁止の町触れが出されているところをみると、江戸の市中から、そういった振り売りは姿を消すことがなかったようだ。
 そこで幕府は、文化年間(1804~1818)になると現実を容認し、こんどは彼らに責任を持たせるべく、その数を限定させ、火の取り扱いで不始末を起こした場合、所属する五人組に責任を負わせることにした。
 ところで、江戸時代、蕎麦やうどんをどうやって食していたのか。醤油が普及していなかった江戸時代初期には、茹で上がった麺に大根などの辛みをからませダシ汁をかけて食べるのが普通だった。たっぷりの熱い汁の中に麺を入れて食するようになったのは、もう幕末近くのこと。寒い夜に、屋台の前で、茹で上がった熱い麺を汁と一緒にたぐって食べ暖を取り、代金をごまかそうとする落語の「時そば」は、幕末の頃の江戸の話ということになる。

(お知らせ)
本コラムの執筆者・棚橋正博先生が、NHKカルチャーラジオに3月まで出演中です。テーマは「江戸に花開いた『戯作』文学」。NHKラジオ第2放送、毎週木曜日午後8:30~9:00、再放送は金曜日午前10:00~10:30です。

山東京伝(さんとうきょうでん)作『忠臣蔵前世幕無(ちゅうしんぐらぜんぜのまくなし)』(寛政6年〈1794〉刊)より。

『守貞謾稿』…江戸後期の風俗誌。喜多川守貞(きたがわもりさだ)が著した近世風俗の百科事典ともいうべき考証随筆。前集30巻、後集4巻、天保8年(1837)から嘉永6年(1853)に成立。慶応3年(1867)ごろまで加筆された。

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