第34回 旧正月と名刺














 日本にいる中国の人たちが旧正月(旧暦、太陰暦。今年は太陽暦で2月10日)を祝うために帰国ラッシュになるのが、年中行事になったようでもある。日本でも、江戸時代までは太陰暦を採用していたから、正月といえば旧正月のことだった。
 太陰暦が太陽暦に変更されたのは、明治5年11月9日(旧暦、太陰暦)のこと。この日、大蔵省参与の要職などを歴任する大隈重信(おおくましげのぶ)は、来たる12月3日を明治6年1月1日にすると布告した(太政官布告337号)。これには人々は驚いた。
 当時、役人たちの給与はすでに月給制になっていたから、こうすれば12月のひと月分の給与を明治政府は払わなくてもよくなったわけで、財政窮乏を打開する大隈重信の起死回生の妙策だった。大晦日の決算日も消えてしまうので、役人たちは抵抗し重信と役人のあいだでの綱引きがあったらしく、太政官布告が連発されていて混乱している。
 大隈重信の念頭にあった暦(こよみ)は、現在の太陽暦であるグレゴリオ暦であったのかユリウス暦であったのか、また、街の金融業などの利息は12月1日と2日の分をどうしたのかなど、よくわかっていないことが多い。暦屋(カレンダー屋)は印刷に追われただろうと想像するだけである。もちろん年賀の挨拶回りをする人たちも、暮れがなかったのだからしっくりこなかっただろう。
 江戸時代、年賀の挨拶回りに欠かせなかったのは、名前と屋号などを書いた(印刷した)細長い札(「名札」)で、現在の名刺となる紙片である。十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が年始に行くのに「ホイ、名札を忘れた」と、黄表紙(きびょうし)『初登山手習方帖(しょとうざんてならいほうじょう)』で言っているが、それほど必携の札であった。
 年始に訪問するとき、相手も外出していて不在で留守だったりすると、玄関の脇に立てられていた竹の棒とか、図版にあるように柱に刺さっている棒に、この名札を刺して挨拶代わりとしたものだった。今で言うところの名刺代わりというわけである。
 名刺の「刺」は、昔の中国では竹木を削って姓名を書いたもののことをいった。その竹木が紙に代わり、日本の貴族や僧侶たちは目上の人に自己紹介する時に、自分の姓名などを記した紙を「名刺」と呼び献上する習わしとなった。中国では「刺」だけで姓名を書くという意味があったところへ、さらに「名」を冠して意味を二重にさせ「名刺」と呼んだ。
 江戸時代になると、文字通り年始恒例の挨拶用の刺す紙となり名札と呼んだのだが、明治時代になると、古来「名刺」と呼ばれていた自己紹介の風習と名札とが合体し「名刺」に統一され、こんにちでは「名刺」はサラリーマンなどの必携のものとなったわけである。



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年賀の挨拶回りをする礼者(れいしゃ)の一行を描いた黄表紙の挿絵。左の礼者は、名札(名刺)を名札受けの串に刺し、年礼帳に記帳を済ませているところ。小僧がお供。右は、礼者にお供と年玉の扇子を盆にのせた小僧が従っている。頭の上に手足をのせているのは、手足を擬人化した趣向。(『足手書草帋画賦〈あしでがきそうしのえくばり〉』享和元年〈1801〉より)。 

大隈重信…1838~1922。政治家。佐賀藩士。明治15年(1882)、立憲改進党を結成し、総裁となる。同年、東京専門学校(現、早稲田大学)を創立。伊藤・黒田内閣の外相となり条約改正を断行し、反対派に爆弾を投げつけられ右足を失う。同31年(1898)、板垣退助とともに最初の政党内閣を組織。内閣総辞職後は、早稲田大学の総長に就任。
グレゴリオ暦…太陽暦の1つ。1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改正して制定した。ユリウス暦では400年に100回の閏年をおくのに対し、97回の閏年として調整した。現在、世界の各国で用いられている暦法。
ユリウス暦…太陽暦の1つ。紀元前46年、古代ローマのユリウス・カエサルが、天文学者のソシゲネスに命じて作らせた。平年を365日とし、4年に1度、366日の閏年をおく。
十返舎一九…1765~1831。江戸後期の戯作者。『東海道中膝栗毛』は江戸のベストセラー。黄表紙、洒落本、滑稽本など、さまざまなジャンルにわたり作品を多数刊行した。


 

第34回 旧正月と名刺
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