第36回 出替りと契約社員

 近頃、川柳(せんりゅう)が盛んである。誰でも作れるし、理屈抜きに「なるほど」と思わせる秀句に出会うと楽しいものである。しかし、憎まれ口だと言われるのを覚悟で言うのだが、川柳の由来がわかっているのか心もとない若い選者もいて、選ばれた川柳に首をひねることもある。それから見ると、江戸の元祖・柄井川柳(からいせんりゅう)は、流石(さすが)だなぁと思うことがしばしばである。
 そこで、柄井川柳が出した『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』初編(明和2年〈1765〉刊)の中から一句を紹介しよう。
   椋鳥(むくどり)が来ては格子(こうし)をあつがらせ
 この句の意味がすぐにわかった人は、かなりの江戸通である。
 「格子」は、吉原の張見世(はりみせ)の中をのぞけるような格子のこと。「椋鳥」は、江戸へやって来た地方からの季節労働者のことで、椋鳥のように寒い季節に江戸へやって来て稼ぎ、翌年の春先には故郷へ帰って行くところからの命名である。
 そんな田舎者たちが吉原へやって来ると、むさ苦しくて暑苦しくて、張見世の女郎たちが嫌がっていると見立てた句である。
 その椋鳥たちが、江戸で奉公を始めたり更新したりする時期を「出替(でがわ)り」といった。江戸初期では、出替日限は毎年2月(もちろん当時だから旧暦である)であり、一年にわたるような長い期間の奉公を江戸幕府は抑制した。江戸に定住するものが多くなると、江戸の治安が乱れ、地方が過疎化するからである。
 だがその後、寛文8年(1668)12月には武家の奉公人について、翌年正月には町家の奉公人について、出替日限を3月5日にするように町触(まちぶ)れが出された。それ以来、いちおう3月5日が出替日限ということになった。
 「いちおう」といったのは、その後、慣例通りの出替日限を守らない者が多かったので、貞享3年(1686)3月12日には、3月晦日(みそか)までに「出替り」せよと、町触れが出されたからである。そして享保の改革(1716~1745)では、3月20日までに厳守せよと命じられた。
 幕府はこうして雇用を管理抑制していたが、奉公人の身元保証人がいいかげんだったり、給金の支払いや未払いなどで問題が起こったりして、雇用主と奉公人とのあいだでもめ事が訴訟になって手を焼いていた。幕府はこのような裁判沙汰(ざた)を避けるために、当事者同士の契約に任せるようにして、やがて出替日限はケース・バイ・ケースとなっていったのである。
 江戸時代、出替りする季節労働者は「下男」とか「下女」とか呼ばれて、江戸の下層労働を支えていた。現代の、ちょっと前では「出稼ぎ人」、今風に言えば「契約社員」とも似ている。その「契約社員」の労働条件等で問題や訴訟が起こることは、江戸の昔と今も変わらない。現代は、「契約社員」を増やしてOKとしながら、国は保護する気もなさそうで及び腰。どこか江戸幕府の姿勢と似ている。

(お知らせ)
本コラムの執筆者・棚橋正博先生が、NHKカルチャーラジオに3月末まで出演中です。テーマは「江戸に花開いた『戯作』文学」。NHKラジオ第2放送、毎週木曜日午後8:30~9:00、再放送は金曜日午前10:00~10:30です。
 

右の笠をかぶって歩いている二人が、出替りの女たち。料理屋の前を通り過ぎてゆく。道には桜が咲き、凧揚げに興じる子どもたち。春のお江戸の風景である。江戸の春夏秋冬を、風物詩風に描いた初代・北尾重政(きたおしげまさ)の『絵本よつのとき』(安永4年〈1775〉刊)より。

柄井川柳…1718~1790。江戸中期の雑俳の点者(てんじゃ)。浅草龍宝寺門前町の名主。40歳の時に点者となり万句合(まんくあわせ)を始め、以後、点者として評判をとり、その選句を「川柳点」あるいは「川柳」と呼んだ。

『誹風柳多留』…川柳集。呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)ほか編。明和2年(1765)~天保11年(1840)刊。167冊。1~24編前半までは、初代・柄井川柳、以下5世までの代々の選集で、川柳文学を確立した書。

張見世…遊廓(ゆうかく)で、道路に面したところに格子をめぐらせて、部屋に並んだ遊女を見せて客を招く形式の店。

享保の改革…徳川8代将軍吉宗(よしむね)の行なった幕政改革。綱紀粛正(こうきしゅくせい)、質素倹約、旗本・御家人(ごけにん)の救済、農村対策などで、政治・財政の立て直しをはかった。

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