第37回 「花見酒」の経済















 花見の季節。うきうきと浮かれる気分になるのは、江戸の頃からもおなじである。
 花見の落語といえば、「花見酒」や「長屋の花見」、「花見の仇討(あだうち)」が頭に浮かぶ人もあろう。番頭さんが花見ではめを外して旦那にばったり出会う「百年目」や、頭に桜の木が生えてくるナンセンス噺(ばなし)の「あたま山」を思い浮かべた人は、相当な落語通である。
 「長屋の花見」は、貧乏長屋の面々と大家さんが繰り広げるドタバタ喜劇で、馴染(なじ)みのある落語だろう。長屋の一行は、お茶を煮だした「オチャケ」の一升瓶(いっしょうびん)と筵(むしろ)の毛氈(もうせん)、タクアンの玉子焼きや大根のかまぼこなどを抱えて花見の宴へ出かける。茶番の仇討に本物の助太刀(すけだち)が加わる「花見の仇討」は、江戸時代の滑稽本(こっけいぼん) 『八笑人(はっしょうじん)』 (文政3年〈1820〉刊)に原話がある。
 「花見酒」は落語の演目というより、マクラとして演(や)られる小噺であるが、これが有名になったのは、笠信太郎(りゅうしんたろう) が「花見酒の経済」を唱えたためであろう。バブル経済というものの譬(たと)えによく使われる。
 二人の男が、向島で花見客に酒を売ってひと儲(もう)けしようと、酒を入れた酒樽を運ぶ。その途中、片方の者が自分の所持金を相棒に払って酒を一杯やる。カネを渡された相棒が、今度はそのカネを払ってもう一杯、すると片方の者がまたそのカネを払ってもう一杯……。それを繰り返して、向島に着いた頃には酒樽の酒がなくなっていた。二人はすっかり酔っ払い、売上げは所持金だけだったという噺である。
 所持金ばかりが往復し、酒は完売するが、売上金はもとの所持金だけという、儲けたような損をしたような、計算が合わない噺だから面白いのである。酔っ払うという実態があり、自家消費しているのだから実態経済があり、バブル経済には譬えられないという理屈もあるようだが、酒を仕入れた二人は共同経営者で、酒の売上金は共同管理すべきところを双方が怠って使ってしまったわけだから、利潤を云々(うんぬん)するには根本的に欠陥がある噺なのである。
 ところで、年配の方には懐かしいラジオ番組「とんち教室」のメンバーだった春風亭柳橋(しゅんぷうていりゅうきょう)は、この「花見酒」をちょっと変わったオチにした。
 二人の男は、2両(2円)の高値で仕入れた酒樽を担ぐ。片方の者が、空腹なので芋を食べたいと言い出す。芋屋にカネを払えば芋屋に儲けさすばかりだからと、芋を買う代わりに1杯1貫(10銭)で交代交代に酒を呑む。二人の空腹を満たしたら酒樽は空になったが、二人のカネのやり取りだけですんだのだから、「ムダがねえや」というオチに柳橋はした。
 酒は空腹をしのぐための芋の交換品で、酒を呑んで満足し、芋屋に儲けさせずにムダがなかったとのこの結論(オチ)では、酒と芋との交換実態があり、2両の芋を二人で食べたと同じことになろう。これではもう、経済学の「花見酒の経済」で使う噺とは違ってきている。
 柳橋の着想は面白いが、余計な脚色をして交換実態がある経済噺にしてしまったのがまずかった。


(お知らせ)
本コラムの執筆者・棚橋正博先生が出演されているNHKカルチャーラジオ「江戸に花開いた『戯作』文学」が来週、最終回を迎えます。NHKラジオ第2放送、3月28日(木)午後8:30~9:00、再放送は3月29日(金)午前10:00~10:30です。



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隅田川堤の花見の風景。堤いっぱいに広がって子どもたちや女性たちが歩いている。賑やかな声が聞こえてくるようだ。手前の一行の荷物には毛氈や角樽(つのだる)が見え、若い衆が弁当の包みを解いている。『江戸名所図会』(天保5~7年〈1834~6〉刊)より。 
「あたま山」…サクランボの種を呑(の)み込んだ男の頭から桜の木が生えてきて、その木が立派になると花見客で賑わい、うるさくて木を抜いたあとの穴が池になると釣り客などで騒々しく、思いあまった男は自分の頭へ身を投げて死ぬという噺。短編アニメ化されたことが記憶に新しい。
『八笑人』…『花暦八笑人』5編15冊。4編までは滝亭鯉丈(りゅうていりじょう)作、5編3冊は一筆庵主人(渓斎英泉〈けいさいえいせん〉)、与鳳亭枝成作。文政3年(1820)~嘉永2年(1849)刊。江戸の8人の遊び仲間が茶番の趣向を凝らし、演ずるに当たって失敗する滑稽を描いた作品。
笠信太郎…1900~1967。ジャーナリスト。朝日新聞論説主幹として、戦後の講和・安保問題をはじめ、幅広い評論活動で知られる。著書は、『日本経済の再編成』『ものの見方について』『西洋と日本』『花見酒の経済』など。

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