第38回 江戸のサラリー事情

 ピッカピッカの一年生が背負う黄色いランドセルが大きく見える時季である。同時に、新しいスーツに身を包んだ新人サラリーマンたちの姿もちらほら見うけられる。
 今年の春闘ではベースアップ満額回答の企業もあったようで、新入社員諸君にとっては、初めてもらう「賃金」が気になるところでもあろう。
 今回は、江戸時代の賃金の話である。
 まず、「賃金」と書いてなぜ「ちんきん」と読まず「ちんぎん」と読むのか、ご存知であろうかという雑学からの質問。
 答えは、江戸時代の職人たちの報酬が「銀貨」で支払われ、「賃銀」と呼ばれていたからである。
 サラリーマンは、江戸時代ではさしずめ「奉公人」というところであろうか。サラリー(賃銀)は江戸時代から、「月給」「給与」「給料」「給金」とさまざまな呼び方があった。「給金」は今も相撲界の専門用語のようになっていて、プロスポーツでは、「年俸」という呼び方が一般的であろう。
 江戸時代の武士たちも年棒制度であった。主君から米の石高(こくだか)でいただくことから、「俸禄(ほうろく)」あるいは「俸禄米(まい)」と呼ばれていた。幕府の御家人(ごけにん)や旗本は原則として米支給だった(一部、現金支給もあった)。
 さて、江戸時代の奉公人の賃銀はどのくらいだったのだろうか。
 京都の職人の手間賃については、寛政元年(1789)の皇居造営時前後の突出した時期を除き、江戸時代を通じて、おおよそ銀1・5匁(もんめ)から3匁のあいだで推移したと、三井呉服店の資料にある。
 江戸も末期に近くなる頃では、仮に1日の手間賃を銀2匁だとすると、休日なしで働いたとして年収は銀700匁ほど、小判に換算すると12両前後となる。江戸末期頃は江戸初期と比べてインフレがかなり進み、1両の価値はずいぶん下落している。コメの値段で現代と比較すると、1両=約10万円に相当するゆえ、銀2匁は約3000円見当となる。とすると、年収は100~120万円くらいということになる。
 職人の場合は、衣類と住居代は自分持ち(食事は仕事先や親方などが出してくれることが多い)だから、借家住まいだと店賃(たなちん。家賃)が問題である。江戸市中にあるごく狭い九尺二間(くしゃくにけん。間口2・7メートル、奥行き3・6メートル。バス・トイレなしの6畳の部屋に相当)の借家で月々銀5匁(2日半の賃銀分)といったところで、江戸の家賃は狭いわりにはけっこう高かった。
 奉公先の家事をする下女の場合だとどうか。彼女らは、ちょっかいを出す手代(てだい)たちには御用心だが、相部屋ながらも部屋を与えられ、三度の食事は心配いらない。お仕着せという季節ごとの着物の支給があり、半季1両2分(1年で3両)もらうのは待遇がよいほうであったろう。
 図版の右に見える年増の下女は、年季奉公のベテラン(今風に言えばお局〈つぼね〉さん)で、夜なべの針仕事をしながら、前に奉公していた家の奥様は気前がよかったと、山出し(田舎者)の新人下女に話を聞かせているところである。
 正月と盆、暮れに、給金のほかに2朱銀ずつくれて、奥様の着たお古をいただくこともあったと述懐している。2朱銀といえば1両の8分の1に相当するし、女の単衣物(ひとえもの)の着物も奥様が着るようなものだと1両はくだるまいから、古着でも願ってもない副収入だったろう。
 江戸の賃銀、とくに女性の賃銀は、現代と比較してみてどうであろうか?

年季奉公の下女たち。右がベテラン、左が新人。行灯(あんどん)の明かりで仕事をしながらよもやま話をしている。式亭三馬作・歌川豊国画の『早替(はやがわり)胸のからくり』文化7年(1810)刊より。この本は、仕掛絵本の体裁の滑稽本(こっけいぼん)で、口絵に描かれた人物像が、切り取ると着せ替え人形になる工夫で好評、大当たりした。 

奉公人…雇い人。奉公人が給料取りとなったのは、明治5年(1872)から明治新政府が役人に与える米の官禄を廃し、等級に応じて金銭で月給を支給する月給制度が定着して以来のことである。

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