第41回 冷や水売りと白玉

 冷たい飲み物が恋しい季節となった。
 江戸時代には、「冷(ひ)や水売り」という商売があった。冷たい水を入れた荷台を担ぎ、街中を次のような呼び声で売り歩いていた。  

氷水あがらんか、冷(ひやつこ)い。
汲立(くみたて)あがらんか、冷(ひやつこ)い
(『浮世風呂』4編〈文化10年(1813)刊〉)

 暑い日に、日陰で飲む丼一杯の冷や水は、格別だったことだろう。
 江戸は水質が悪い土地柄だったから、すでに1600年代には、冷や水売りは商売として成り立っていたことが、井原西鶴(いはらさいかく)の浮世草子(うきよぞうし)『万(よろず)の文反古(ふみほうぐ)』(元禄9年〈1696〉刊)に見える。
  冷や水には、「白玉(しらたま)」を入れた。白玉は、白玉粉で作った団子。ほかに、道明寺(どうみょうじ)こごめや葛(くず)を入れたりもした。紅(べに)で赤い斑(まだら)模様にした白玉を望む客には、それを入れてサービスした。
 冷や水一杯は、はじめは銭(ぜに)1文(もん)だったのが、インフレが進んだ1800年頃から幕末には4文(現代の約100円程度)で売られていた。幕末の大坂では、「冷や水売り」ではなく「砂糖水屋」と呼ばれて、砂糖を入れた甘い冷や水は一杯6文で売られていたと、大坂生まれの喜多川守貞(きたがわもりさだ)は伝えている(『守貞謾稿』)。錫(すず)製のグラスは涼感を呼ぶところから、現代でも、冷酒などに使う店もあるが、錫製の茶碗での冷や水は、白玉をたくさん入れて、一杯8文とか12文で売られていたようである。
 ところで、この「白玉」、もうひとつおなじ名前で呼ばれる江戸時代の発明品があるのをご存じだろうか。
 江戸時代、冷や水を入れるのに使われた錫製の茶碗とか徳利などの容器は、「白鑞」(びゃくろう)と呼ばれる錫と鉛の合金によって作られていた(『和漢三才図会』)。
  ちなみに、この「白鑞」とよく間違われるものに「白蠟(はくろう)」がある(「金」偏と「虫」偏の違い)。「白蠟」は、多くミツバチの巣から精製された、当時贅沢品だった照明のロウソクの原料である。安永年間(1772~81)から寛政初年(1789~)にかけて、経済バブル期の田沼時代以後、中国より突出して大量の「白鑞」が輸入されたと永積洋子編『唐船輸出入品数一覧』に書かれているが、これは「白蠟」のことらしい。この頃より、江戸の夜は、魚油を使った暗い灯油の時代から明るい贅沢品のロウソクの時代となったのである。
 さて、「白鑞」に戻ろう。「白鑞」の合金の成分である鉛を炭酸と合成して鉛白(えんぱく。「唐の土」)を作った。それが白色の粒子であることから「白玉」と呼ばれ、これを使って瀬戸物(せともの)の「焼継(やきつぎ)」がおこなわれた。「白玉」による焼継は、割れた瀬戸物を接着して修復する画期的な方法であった。これが始まったのは、寛政初年以降とされ、随筆『親子草』によると、江戸の大和屋伝六が「白玉」発明の元祖だったという。
 落語「両国百景(りょうごくびゃっけい)」では、大道(だいどう)でやる「焼継屋」の様子が口演されている。今ではめったに高座にかかることのない噺(はなし)のようだが、八代目の雷門助六(かみなりもんすけろく)は、焼継を扇子と茶碗で演(や)っていた。落語は師匠譲りの芸だから、江戸時代の焼継の正写(しょううつ)しだったと考えてよかろう。

右に「冷や水売り」が、冷や水の荷台をおろしている。通りを駕籠(かご)の一行がゆく。江戸の一年の風俗を描いた山東京伝(さんとうきょうでん)の『四季交加(しきのゆきかい)』(寛政10年〈1798〉刊)より、6月(旧暦)の風景の部分。

井原西鶴…1642~93。江戸前期の浮世草子作者、俳人。大坂の人。『日本永代蔵』『世間胸算用』『好色一代男』『好色五人女』などの名作を数多く残した。

喜多川守貞…1810~?。江戸後期の風俗史家。大坂から江戸に移る。著書の『守貞謾稿』は、前集30巻、後集4巻。天保8年(1837)から嘉永6年(1853)までの江戸時代の風俗をまとめた大著。

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