第43回 江戸の朝顔ブーム

 梅雨が明けると一気に暑い夏。今はクーラーがあるから快適だが、むかしは夏を涼しく過ごすためにさまざまな工夫をこらした。ことに朝晩の涼しさをいつくしんだ暮らしはなつかしい。
 蚊帳(かや)は、夏の夜の風物であった。
 加賀の国(石川県)の千代女(ちよじょ)は、夫を失ったあと、「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな」と詠(よ)んだとの伝説がある(実際は遊女浮橋の句とされる)。「お千代さん蚊帳が広くば泊まらうか」(『誹風柳多留』81編〈文政7年(1824)刊〉)は、そんな俗説を踏まえ、ひとり寝ていると、広く感じる蚊帳であるならお千代さん、ちょっと一晩、お邪魔しましょうかとの句意である。
 そして、江戸庶民に知られた千代女の句は、何といっても次の句だろう。

   朝顔に釣瓶(つるべ)とられて貰(もら)ひ水

 アサガオの咲く早朝の井戸端の様子が目に浮かぶ。水道が発達して井戸が消えた今では、釣瓶の説明が必要となるが、朝早く井戸の水を汲もうとすると、一夜のうちに伸びたのであろうアサガオの蔓(つる)が釣瓶に絡みついていて、蔓を切ってしまうのはしのびなく、近所に貰い水をしたという句意である。
 アサガオが園芸植物として愛玩されたのは江戸時代になってからで、大名から庶民までが、異花奇葉のものや大輪の花を咲かせる品種改良に夢中になった。とくに下谷御徒町(したやおかちまち。台東区上野)では、文化3年〈1806〉3月4日の江戸大火(丙寅〈へいいん〉の大火)で御徒衆(おかちしゅ)の組屋敷が大火で罹災して後、空き地だらけになったところでアサガオの栽培が盛んになり、「下谷の朝顔」と呼ばれ人気となった。
 折からのアサガオ愛玩ブームに乗って、黄色の花のアサガオまで現れたと曲亭馬琴(きょくていばきん)は伝えているようだが、珍花と大輪の花を求めて品種改良は、アサガオにとどまらず、キク・ラン・ツツジ・ツバキ・カエデなどにもおよんだ。オーストリアの生物学者メンデル(1822~84)も顔負けの遺伝品種の改良は、遺伝子組換えがないばかりといえた。
 やがて下谷御徒町が復興して空き地が点在するだけになってしまうと、上野をはさんで入谷(いりや)でアサガオの栽培がはじまり、明治維新を迎える。現在の入谷鬼子母神(きしもじん)の境内で行われる朝顔まつりは、江戸時代の「入谷の朝顔」の名残りを伝えるものである。
 朝顔まつりは、毎年7月6日~8日に開かれる。やはり大輪のアサガオが人気のようでもある。

右が黄色の朝顔。「極黄采 一種 色如菜花(色は菜の花のごとし)」とある。(『あさがほ叢』上巻、文化14年(1817)刊、雑花園文庫蔵)

千代女…1703~75。江戸中期の女流俳人。加賀松任の生まれで、「加賀の千代女」と呼ばれた。芭蕉の高弟・各務支考(かがみしこう)より俳諧の指導を受け、わかりやすく親しみやすい作風で生前没後ともに名声を博した。

御徒衆…将軍や大名の行列の供をしたり警固にあたったりする侍。

曲亭馬琴…1767~1848。江戸後期の戯作者。代表作に、長編の読本(よみほん)『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』など。

入谷鬼子母神…台東区下谷にある法華宗本門流の寺。万治2年(1659)開創。鬼子母神像をまつり、「恐れ入谷の鬼子母神」というしゃれ言葉でも親しまれている。

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