第45回 スイカと料理茶屋百川

 夏の代表的な果物スイカ(西瓜)が日本に伝来したのは徳川時代の寛永年間(1624~44)のことだと、農学者・宮崎安貞(やすさだ)などが唱えてから、それが江戸時代では常識化していた。しかし、江戸幕府開闢(かいびゃく)と同時に刊行された『日葡(にっぽ)辞書』に「スイカ(水瓜)」の語が載っているので、すでに江戸時代より前に栽培されていたことがわかる。伝来時期は、南北朝時代(1336~92)以前に遡(さかのぼ)るようである。
 江戸初期、スイカは肥前(佐賀・長崎県)や薩摩(鹿児島県)など九州の名産だったという。江戸の庶民がスイカを食べるようになったのは、江戸時代も半ば頃になってからであろう。
 江戸庶民が食べるスイカは黒皮だったというが、当時の図版を見ると、屋台で切り売りされているスイカには、黒っぽい地色に縦縞模様がある。おそらく江戸の庶民がスイカを好んで食べるようになった頃には、品種改良がなされ、あるいは新品種の輸入などがあって、現代より黒っぽいが、縦縞のあるスイカだったと考えられる。
 スイカと同じウリ科であるウリは、今はマスクメロンに取って代わられたようである。中高(なかだか)でやや細長い色白美人を、ウリの種に似ているところから「瓜実顔(うりざねがお)の美人」という形容も、すっかり聞かなくなってしまった。
 ところで、今でも地方によっては、スイカやウリの皮を塩漬けにした漬物が名物のところもある。とくにスイカの皮は、中国料理の前菜に使われることがおおい。
 江戸時代も半ば過ぎになると、中国料理を喜ぶ江戸人があらわれて、江戸に卓袱料理(しっぽくりょうり)を看板にした料理茶屋も出現してくる。
 落語の「百川(ももかわ)」の舞台となる、日本橋浮世小路(うきよしょうじ)にあった料理茶屋・百川は中国料理の代表的な店であった。「百川さんとう」(さんとうは山東の意味か不明)と号する料理茶屋百川のたたずまいは庵(いおり)風の店構えで、中の座敷にはテーブルが置かれ、中国式の卓袱料理が並べられていたことが、四方山人(よもさんじん)の黄表紙(きびょうし)に描かれている。
 物珍しさも手伝って夏にでもなれば百川では、金持ちの通人客たちは、スイカの皮の前菜をはじめとする中国風の高級料理の数々に舌鼓(したつづみ)を打って暑気払いしたことだろう。
 落語「百川」は、あたらしく百川の奉公人になったばかりの田舎者の百兵衛が、早呑込(はやのみこ)みで失敗を繰り広げる話である。百兵衛が河岸(かし)の若い衆に慈姑(くわい)のキントンを丸呑みさせられ目を白黒して涙ぐむところに笑いをつくるので、落語家は和風の料理屋のように演(や)るが、もともと「百川さんとう」は中国料理を看板にする料理茶屋だったのである。

スイカは丸ごと売るだけでなく、切り売りもしていた。勇み肌の男がスイカを斬って、刀の斬れを試して見せている。(『親和染五人男』天明年間〈1781~89〉刊) 

宮崎安貞…1623~97。江戸初期の農学者。武士を捨てて農業技術の研究をした。著書に『農学全書』。

『日葡辞書』…慶長8年(1603)にイエズス会宣教師がポルトガル語で編纂刊行した日本語の辞書。約3万2800語を収録。当時の発音がわかる貴重な資料。

卓袱料理…長崎に伝わる、中国料理と江戸前料理が混ざり合って発展した独特な料理。卓袱台の上にさまざまな料理を器に盛って置き、各人が取り分けて食べる。

四方山人…大田南畝(おおたなんぽ)の別号。1749~1823。江戸後期の狂歌師・戯作者。百川の絵が描かれている作品は、天明4年(1784)刊行の(『頭(あたま)てん天口有(てんにくちあり)』。

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