第46回 化粧水「江戸の水」の流行

 美白化粧水でのトラブルが話題となっている。今も昔も女性の美肌への憧れはかぎりなく、さまざまな化粧水が生み出されてきた。夏の強い日差しに、日焼け止めや肌ケアーの化粧水はどれがよいか迷っている女性は多いかもしれない。
 今からおよそ200年前、江戸の女性たちに人気を博した化粧水があった。化粧の下地にして白粉(おしろい)がよくのり、ニキビなどの肌荒れいっさいに効く「江戸の水」という化粧水である。これは戯作者(げさくしゃ)の式亭三馬(しきていさんば)が、文化8年(1811)閏(うるう)2月25日、本町二丁目(中央区日本橋本石町)に開店した店で売り出したもので、たちまち評判になった。
 式亭三馬といえば、『浮世風呂(うきよぶろ)』や『浮世床(うきよどこ)』などの滑稽本(こっけいぼん)作者として知られるが、商売人としてのもうひとつの顔もあった。
 図版は、三馬の『江戸水福話(えどのみずさいわいばなし)』(文化9年刊)という作品の挿絵であるが、コマーシャルも兼ねて自分の店の様子を描いている。新店舗では、「延寿丹(えんじゅたん)」という痰咳(たんせき)などの万病に効くと謳(うた)う強壮薬(京都にあった製薬本舗・田中宗悦製。もともとは西宮新六〈にしのみやしんろく〉が取次店)を大々的に売り出し、そのついでに化粧水の「江戸の水」も売り出したのだった。
 まず、「江戸の水」というネーミングが功を奏した。井の頭(かしら)の池や多摩川から引いてきた上水(水道水)が江戸っ子の飲み水であり、その水道水で産湯(うぶゆ)をつかったのを誇りにする江戸の人びとにとって、「江戸の水」というネーミングは耳に心地よかった。
 値段も手頃だった。ガラス瓶入りの「江戸の水」を箱入りにして48文(もん)、大瓶は200文で売った。かけ蕎麦が1杯16文だったから蕎麦3杯分といったところである。入れ物を持参し詰め替えにすると、32文と割安にした商法も当たった。
 それに、瓶や箱もお洒落だった。ガラス瓶は、両国米沢町(中央区米沢町)のガラス屋に1箇(重さ60g)を6文で発注。箱は越谷大迫村(埼玉県越谷市)箱屋長八と浅草福井町(台東区浅草橋・柳橋)箱屋利助に注文し、これも1箱6文で誂(あつら)えた。売り値の4分の1が包装代になったわけだが、お洒落なパッケージは女性心理をくすぐり、購買心を煽(あお)ったようである。
 式亭三馬は、戯作者としては成功をおさめていたが、商売人としてはけっして順風満帆(まんぱん)なものではなかった。
 文化3年正月の大火に罹災(りさい)したのがケチのつきはじめで、文化6年頃から酒の飲み過ぎによる肥満がもとで、翌文化7年春から腫気(しゅき。腫れの病)や痛風の大病で歩行困難となった。快方に向かいだしたその年の12月19日に、それまで住んでいた本石町四丁目新道から化粧品店街の本町二丁目に引っ越して薬舗を開店。戯作者との二足の草鞋(わらじ)を履(は)くことになったのである。
 じつはこの時、三馬は借金で首が回らなかった。だから、今でいえばタレントショップのように、戯作者・式亭三馬として名が売れていることに賭けてみるなか、「江戸の水」は起死回生のヒット商品になった。商運が開けたこの「江戸の水」の製造法を訊(き)かれると三馬は、「家伝の秘密」と言うだけだったという。

江戸本町にあった式亭三馬の店。右には「延寿丹」の大きな広告が出ており、中央には「延寿丹」の箱が積まれている。左上の「江戸の水」の広告には「おしろいのよくのる薬」とある。武家の客と話す店の人たち、お茶を運ぶ小僧さん、往来の人びとなど、にぎやかな様子が伝わってくる。(『江戸水福話』文化9年〈1812〉刊より) 

式亭三馬…1778~1822。江戸後期の戯作者。19歳で黄表紙(きびょうし)を発表し、以後、合巻(ごうかん)や滑稽本など百数十点の作品を発表。『浮世風呂』(初編文化6年刊~)『浮世床』(初編文化10年刊~)は、銭湯や髪結床での庶民の会話を活写した代表作。

西宮新六…浄瑠璃などの演劇関係書の専門店だったが、式亭三馬の黄表紙処女作も出した、三馬と親しかった老舗(しにせ)の地本問屋(じほんどんや)。「延寿丹」の取次権を三馬に譲った。

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