第52回 顔見世興行と千両役者

 今年4月にオープンした新歌舞伎座では、11月1日から顔見世(かおみせ)大歌舞伎『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』がはじまっている。顔見世大歌舞伎は、通常の月よりも豪華な顔ぶれで華やかに行われ、江戸時代の名残りを見せている。
 江戸の顔見世興行(こうぎょう)も11月に行われていた(大坂では新年正月)。もちろん江戸時代は旧暦であるから、今年で言えば、旧暦11月1日は12月3日である。
 江戸時代の歌舞伎役者は1年契約だったから、11月に新しい役者が揃(そろ)って挨拶する顔見世興行は、歌舞伎の1年のはじまりの大変重要な行事であった。顔見世の初日には正月元旦と同じように、劇場関係者は正装して祝儀をのべ、3日の間は雑煮で祝った。
 江戸三座といわれた中村座、市村座、森田座には、櫓(やぐら)が上げられ、劇場前に米俵(こめだわら)などの贔屓(ひいき)連中からの贈り物の品々がうず高く積み上げたれた。それらを見物する人々で芝居町は大いににぎわい、前日から徹夜で入場した観客たちは、初日の幕が上がるのを、今か今かと待った。そして、一日早朝、式三番叟(しきさんばそう)のめでたい舞台から顔見世ははじまった。
 江戸時代の歌舞伎は、娯楽の花形であった。
 一日に千両の商いがある譬(たと)えとして「日千両(ひせんりょう)」という言葉が生まれたのは江戸時代も後半のことだが、日本橋界隈(おもに本小田原町)の魚市場、全盛期の遊廓吉原、そして歌舞伎芝居(三座)の売り上げが一日に千両だったといういうわけである。
 当時の歌舞伎の入場料は、どのくらいであっただろうか。文化3年(1806)夏興行の市村座では、桟敷(さじき)席が銀20匁(もんめ)、高土間が銀15匁、平土間が銀12匁、土間割合(6人入りの枡席)が1人200文(もん)だった。花道の後ろに切落しという100文(もん)前後の追込み席もあったが、この当時はかなり縮小されていたようである。芝居小屋の建物としての規模は、間口(まぐち)11間(約20メートル)、奥行22間半(約41メートル)だから、今日の大劇場ほどの規模ではなかった。
 大衆席の平土間(ひらどま)の銀12匁といえば、当時の相場でいうと、ほぼ米20升(しょう)、すなわち2斗(と)=30㎏に相当する。米価で換算するには現在の米の銘柄がまちまちで難しいところだが、標準的な5㎏3000円で計算すると、およそ18000円くらいになろう。歌舞伎の席料は高かった。ちなみに、この換算の方法で千両を計算すると1億円に相当する。
 計算のついでに、「一日千両」を歌舞伎三座で稼ぎ出したとすると、一座あたりが333両、これを当時の大衆席の平土間の銀12匁で割ってみると、一座あたりの観客動員は1665人。観客に参勤交代の勤番武士や江戸見物人がいたとしても、当時の江戸の人口は160万を超えていたから、一座につき人口0・1%の観客動員数といったところである。
 「千両役者」とは、11月の顔見世興行から翌年10月までの1年間の給金が千両になる役者をいうわけだ。正徳・享保年間(1711~36)、二代目市川団十郎(だんじゅうろう)は千両役者となり、上方(かみがた)から一時、江戸へも下ってきた若女形(おやま)の初代芳沢(よしざわ)あやめも千両役者となっている。 

江戸歌舞伎では、顔見世興行の序幕には『暫』(しばらく)』が不可欠の演目であった。花道の中央で止まってツラネ(長ぜりふ)を述べる見せ場。演じているのは、五代目市川団十郎。(『化物箱入娘』天明元年〈1781〉刊より) 

江戸三座…元禄年間には、この三座のほかに山村座があったが、山村座は正徳4年(1714)の江島生島(えじまいくしま)事件で廃絶、以後、休座などの経緯があるが、三座で明治初年まで続く。

二代目市川団十郎…1668~1758。元禄年間の名俳優で、市川家の基礎を確立した。「助六」の現在のスタイルを原型を作った。

初代芳沢あやめ…1673~1729。元禄期の代表的女形。文化年間の五代目まで続く。

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