第54回 浅草寺の年の市

 街のあちこちから、ジングルベルの音楽が聞こえている。
 最近では、11月からサンタクロースの人形やクリスマスツリーが飾られ、おせち料理の宣伝もにぎやかに、季節の風物詩が先取りされるようになったが、「年の瀬」の季節感はだんだんと失われつつあるようだ。
 「年の瀬」と聞くと、宝井其角(たからいきかく)の「年の瀬や水の流れと人の身は」の発句を思い起こす方もあるかも知れない。
 赤穂浪士(あこうろうし)の大高源吾(げんご)は煤払(すすはら)いの笹竹売りに身をやつし、両国橋近くの本所松坂町にある吉良邸の様子を探った帰途、両国橋で同じ俳諧グループの宗匠である其角とバッタリと出会う。時は12月13日、江戸は大掃除であわただしい日のことであった。
 久しぶりの挨拶を交わした其角は橋の上で、くだんの「年の瀬や…」の発句5・7・5を詠(よ)むと、すぐに源吾は「あした待たるるその宝船」の付句(つけく)7・7を詠む。これで其角は、赤穂浪士が明日、吉良邸に討ち入るのだなと察知したという。はたして14日に討ち入りは行われた。
 江戸の「年の瀬」は、13日の煤払いにはじまって、17、18日の浅草寺(せんそうじ)の「年(とし)の市」で盛り上がりをみせた。この2日間は、昼も夜も、浅草寺を訪れる客の絶えることはない。境内だけでなく、周辺の町までも露店が立ち並び、注連飾(しめかざ)り、破魔弓(はまゆみ)などの縁起物、さまざまな正月用品が売りさばかれた。多くの人々が群集して歩けないほどの混雑で、人を押しのける「馬じゃ馬じゃ」の掛け声がとびかっていた。
 図版は、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が描いた浅草寺の年の市のにぎわいである。仁王門から観音堂の境内に人があふれている。向こうには、羽子板を売る店があり、その隣の店は、五徳(ごとく)や焼き餅用の網を売っている。
 浅草以外の年の市では、15日の深川八幡宮、20日の神田明神、24日の愛宕(あたご)神社、24日の麹町(こうじまち)天神の年の市がつづいた。日本橋近くの十軒店(じっけんだな)などでは、羽子板市が立っていた。
 小石川療養所の医師も勤めていた小川顕道(あきみち)が書き残した随筆『塵塚談(ちりづかだん)』では、かつては浅草観音の年の市ばかりだったのが、近頃(文化11年〈1814〉頃)では神田、深川、芝愛宕、麹町などへ出掛ける人も多くなって、浅草観音の年の市は、ひと頃のにぎわいではなくなったと記している。
 新興埋立地だった深川や、江戸の住宅地の真ん中の神田、武家屋敷も並ぶ愛宕や麹町の年の市もにぎわい出すと、浅草ばかりが人出の雑踏(ざっとう)とはならなくなったわけである。それでも、縁起物を求める年中行事だけに、本場の浅草でなければならないという人も多かった。 
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浅草寺の年の市のにぎわい。十返舎一九の狂歌絵本『夷曲東日記(いきょくあずまにっき)』(寛政12年〈1800〉刊)より。
宝井其角…1661~1707。江戸前期の俳人。蕉門十哲のひとり。芭蕉とともに俳諧の革新につとめた、芭蕉没後、軽妙で洒落た俳諧の一派「江戸座」を生んだ。
赤穂浪士…元禄15年(1702)12月14日、吉良義央(よしなか)を襲って、主君浅野長矩(ながのり)の仇を討った旧赤穂藩士47名のこと。
十返舎一九…1765~1831。江戸後期の戯作者(げさくしゃ)。ベストセラー『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』をはじめ、黄表紙(きびょうし)、洒落本(しゃれぼん)、滑稽本(こっけいぼん)、絵本など、様々なジャンルで活躍した作者。
小川顕道…1737~1816。江戸中期の医師。祖父の代から受け継いだ小石川養生所の肝煎(きもいり)をつとめた。『塵塚談』は、青年期から78歳までに見聞した江戸の風物や流行を123条にわたって記したもの。文化11年(1814)成立。
第54回 浅草寺の年の市
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