第57回 遊女のバーゲンセール

 デパートなどでは、冬物のバーゲンセールたけなわである。今回は、江戸時代の吉原にもバーゲンセールがあったという話。
 吉原遊びと世の中の景気は連動していたから、吉原では年の初めの正月に一年の繁栄を願うわけだが、正月2日の買初めでは、着飾る遊女に馴染(なじ)み客は豪勢に御祝儀をはずむ。
 しかし、11日の蔵開(くらびら)きの頃になると息切れというか、廓(くるわ)の正月行事はひと息つく。1月後半は客を呼び込むための吉原の行事はなく、商家にならって夷講(えびすこう。20日)やら、廓の中でにぎやかに大黒舞(だいこくまい)を舞わせてお客の目を楽しませようとするのだが、どうしても、お客の足は鈍りがちとなる。前年の暮れから新装改築したり、とにかく客の呼び込みに吉原の娼家はやっきになり、不景気風だけは追い払いたいと考えている。
 吉原の最大の顧客でドル箱だった札差(ふださし)たちに、幕臣の旗本や御家人(ごけにん)が借りていた5年以前の借財は支払い不要、つまり5年前の借金はチャラになるという棄捐令(きえんれい)が発令されたのは、寛政元年(1789)9月、寛政の改革の目玉でもあった。
 同じ頃、風紀粛正(しゅくせい)のため、江戸各地の盛り場で春を売っていた私娼狩り、いわゆる「けいどう」が行われ、捕らえられた私娼は吉原へ送られた。すると、吉原の遊女の品格はガックリと落ちた。それまで吉原の高級遊女を相手に遊ぶ最大の顧客だった札差たちは、商売を休み、幕臣に対し貸し渋りをすると同時に、吉原遊びをやめ、吉原の灯は消えかかってしまう。
 「日千両」と、一日、千両の大金が落ちる歓楽街と豪語していた吉原には不景気風が吹き荒れだした。困った娼家の代表は、寛政元年の11月に、町奉行に1万5千両(現代の18億円くらい)の一時融資を願い出るが却下された。吉原では遊女にもてない代表格の旗本や御家人たちは、これを聞き陰でこっそりと、「いい気味だ」と嘲笑(ちょうしょう)したという。
 困った娼家では、客を呼び戻すために遊女のバーゲンセールならぬ、遊興代のダンピングをはじめた。とくに高級遊女を看板にしていた娼家は、背に腹は代えられなかった。
 寛政の改革まで、「昼三(ちゅうさん)」と呼ばれる最高級の遊女の昼の遊び代が金三分(ぶ)、夜の遊び代も金三分、昼から夜まで、一日遊ぶと「昼三」の揚代は額面どおり一両二分だった。
 ところが、寛政の改革を境に、「昼三」の一日の揚代(あげだい)が一両一分に値下りしたのである。
 吉原で遊んだ戯作者(げさくしゃ)の山東京伝(さんとうきょうでん)十返舎一九(じっぺんしゃいっく)は、吉原が不景気に見舞われ品格が落ち、「昼三」の揚代が一両一分と安くなったことを、京伝は黄表紙(きびょうし)『箱入娘面屋人魚(はこいりむすめめんやにんぎょ)』(寛政3年〈1791〉刊)で、一九は合巻(ごうかん)『金草鞋(かねのわらじ)』初編(文化10年〈1813〉刊)で、さりげなく書いている。 

吉原、仲の町(ちょう)の華やかな年礼の様子。右中央の禿(かむろ)は大羽子板を持っている。左下には大黒舞の芸人がいる。『青楼年中行事』文化元年(1804)刊より。

蔵開き…正月、その年はじめて蔵を開く行事。寛政元年頃には11日としていた。鏡餅で雑煮を作ったりして祝った。

大黒舞…門付(かどづけ)芸のひとつ。遊芸人が大黒天の面と頭巾(ずきん)を付けて打出の小槌(こづち)を持ち、舞いと唄で祝うもの。室町時代から江戸時代にかけて行われた。

札差…蔵宿(くらやど)とも。江戸時代、旗本・御家人に代わって蔵米の受取りや卸売を行い、手数料をもらっていた商人。中期以降、武士たちに米を担保として金融業もしていた。

寛政の改革…江戸中期、老中(ろうじゅう)松平定信(さだのぶ)が行った改革。天明7年(1787)~寛政5年(1793)にかけて、棄捐令のほかに、異学の禁、囲米(かこいまい)などを実施し、文武両道を奨励した。江戸へ流入した農民を故郷へ帰す旧里帰農令(きゅうりきのうれい)を出すが、失敗に終わった。

山東京伝…1761~1816。江戸後期の戯作者・浮世絵師。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)の第一人者。二度の結婚とも、妻は遊女上がりの人(お菊・百合)だった。

十返舎一九…1765~1831。江戸後期の戯作者。ベストセラー『東海道中膝栗毛』をはじめ、黄表紙・洒落本・滑稽本(こっけいぼん)・読本(よみほん)など、さまざまなジャンルで活躍した。

ほかのコラムも見る