第62回 卯の花と豆腐

 「卯(う)の花をかざしに関の晴着かな」。芭蕉に随行して奧の細道に旅出った門弟の河合曾良(かわいそら)が、元禄2年(1689)4月20日、奥州への玄関口である白河の関址(せきし)を越えるときの挨拶句である。
 「卯の花」は、空木(うつぎ)の花のことで、初夏に白い花が咲き乱れる。江戸時代まで、俳諧では初夏4月の季語とされていたが、明治5年11月に新暦(太陽暦。グレゴリオ暦)が公布されてから5月の季語となった。
 江戸では、4月8日のお釈迦様の誕生祝いの日である「灌仏会(かんぶつえ)」には、家ごとにお釈迦様の花とされる卯の花を棹(さお)の先に付けて高く掲げる風習があった。寺院の境内では、特設の花御堂(はなみどう)が設けられ、参拝者が釈迦像の頭に甘茶(あまちゃ)をかけてその誕生を祝った(図版参照)。これは、今でも見られる光景である。
 さて、「卯の花」といえば、豆腐の「おから」の別名でもある。雅味がある名前で面白い。「おから」はまた、「雪花菜(きらず)」とも書く。豆腐を作ったあとの絞りカスは、細かくて切る必要がないところから「切らず」と呼ばれ、それはまるで卯の花か、雪のように白いということで、「雪花菜」の漢字を宛てたとされる語源説に従ってよかろう。
 どの世界でも忌(い)み言葉というものがあって、結婚式では、「終わる・切る・去る・出る・別れる」が禁句、閉会を告げる司会者が出口を「お開き口」と言い、苦笑させられることがある。豆腐のおからは、「から(空)」に通じて忌み嫌うから、空っぽの反対に得られることと変えて「得(う)る」、そして、色合いが白いことから「卯の花」と言うようになったという。烏賊(いか)のスルメのことを、バクチなどで使い果たす意の「スル」を嫌い「当たりめ」と言うのと似ている。
 ところで、江戸時代の豆腐は今より大きかったと、江戸の料理専門家などが言うので通説となっているが、実際はどうだったのであろうか。現在でも地方によっては、豆腐屋へ直接買いに行くと、スーパーマーケットの棚に並ぶバック入りの豆腐より大ぶりなものが売られている。江戸の料理専門家の言う大きさ云々は、どの豆腐を基準にしているのかは曖昧で、表現が不親切である。
 じつは、江戸の豆腐は古くからサイズが決まっていて、縦7寸(約21㎝)、横6寸、厚さ2寸の木箱で作られ、それを9つに分割して売り、油揚は豆腐1丁を12等分して作られていた。豆腐屋の店先で豆腐庖丁でいくつかに切ってもらったという体験は、年配の方ならあるだろう。大家族の家では1丁のまま、少人数の家では半丁か4半分に小売りしてもらう。豆腐が大きかったのではなく、家族構成に応じ小売りする合理的な商売だったのである。
 ちなみに、寛政3年(1791)には、豆腐1丁38文、油揚4文、半世紀後の幕末天保13年(1842)には、サイズは変わらず、豆腐1丁52文、油揚5文に高騰していた。
 幕末まで生きた俳人小林一茶の句に、「卯の花の垣に名代(なだい)の草鞋(わらじ)哉(かな)」がある。名代は名高いの意味、卯の花が咲き誇る垣根に丈夫だと評判の草鞋が何足かぶら下がっていて、お代は竹筒に入れて下さいというわけである。今日でも路傍で野菜などが売られている光景と同じ。旅の田園風景のなかに、のどかで純朴な信用商売を見て一茶は詠(よ)んだ。

芝・増上寺(ぞうじょうじ)の灌仏会。大勢の参拝客でにぎわっている。右中央にあるのが花御堂。釈迦像が安置され、像に甘茶をかけているところ。子どもを連れた男性、外出用の揚帽子(あげぼうし)をかぶった女性、日傘をさした一行もいる。(『絵本吾妻抉〈えほんあずまからげ〉寛政9年〈1797〉刊より』 

河合曾良…1649~1710。江戸時代前期の俳人。信濃の国の人。芭蕉に師事。「鹿島紀行」「奥の細道」の旅に随行して師を助けた。主著「曾良日記」。

小林一茶…1763~1827。江戸後期の俳人。信濃柏原の人。14歳の時に江戸に出る。俳諧を二六庵竹阿(にろくあんちくあ)に学び、全国俳諧行脚(あんぎゃ)の生活を送ったのちに、晩年は故郷に帰り俳諧の宗匠となるが、妻子を亡くすなど不幸であった。日常生活を平明に表現した多くの句を残す。主著に「おらが春」「父の終焉日記」など。

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