第63回 山東京伝の原稿料は?

 ピッカピカの社会人一年生は、初めて給与をもった時節であろう。月末の給与袋が待ち遠しかったという世代はもう、サラリー(給与)でなく年金生活かもしれない。
 江戸の戯作者(げさくしゃ)山東京伝(さんとうきょうでん)が、初任給というか、初めて出版版元から原稿料(印税)をもらったのは、寛政2年(1790)、『仕懸文庫(しかけぶんこ)』など洒落本(しゃれぼん)三部作を執筆した時だった。版元は、江戸の戯作や浮世絵の版元として名高い蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)であった。
 京伝は蔦屋から、洒落本三部作の原稿料として金2両3分(ぶ)と銀11匁(もんめ)をもらう約束をしていた。だが、折からの寛政の改革が目ざす風紀粛正に違反し、社会風俗を乱す遊里小説であり無届けに近い形で出版したというかどで、これら三部作は絶版処分にされてしまう。京伝はほぼ半額の金1両と銀5匁だけを手付け金として手にしただけで、やがて手鎖(てじょう)50日の刑に処される。版元の蔦屋も財産半分を召し上げられる苛酷な処罰に遭っている。
 このとき、京伝は洒落本1枚(2ページにあたる)を銀1匁の報酬の約束で書いている。なかなか単純に換算できないのだが、1枚がおよそ600字になるから、原稿用紙1.5枚で銀1匁というところになる。当時は銀相場が高く、1両=49匁だったから、1両を現代価格で12万円とすれば、原稿用紙1枚あたり1600円程度の報酬となる。結局、三部作の原稿料として手にしたのが12万円と少し。もともともらえるはずだった原稿料にしても30万円にも満たない額だった。ヒット作になると割増し報酬をもらえる約束だったが、決して高額とはいえなかろう。
 京伝がもらった金1両と銀5匁は、小判1枚と小粒銀5匁の金貨と銀貨だったろう。これは金属製の「実質貨幣」ということであり、これに対し、現代の社会人一年生が受け取る初任給は紙幣の「名目貨幣」である。もし、日本国が破産したり消滅したりすれば、銀行から下ろした紙幣は名目貨幣と呼ばれるように、たちまち単なる紙切れでしかなくなる。
 紙幣で給与が支払われるようになったのは、明治4年(1871)以後のことである。江戸時代の報酬は「給金」と呼ばれていたように、金属製の実質貨幣で支払われるのが当たり前で、だから紙切れになる心配はなかった。
 ところで、江戸時代には金属貨幣だけで紙幣がなかったのかというと、藩札(はんさつ)と称する、その藩の領内だけで通用する紙幣の藩札がしばしば発行された(金属貨幣の発行もあった)。これは主に、藩財政を立て直すための便宜上の経済措置であった。
 幕末、15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)の時代、金属製の実質貨幣を発行して経済を動かしていた江戸幕府が、一度だけ紙幣を発行したことがあった。慶応3年(1867)、江戸城の金庫が空っぽになったために紙幣「金札」を印刷発行した。しかし、すぐに江戸幕府は崩壊、明治新政府となって「金札」は紙切れになる。さしずめ、今流に言えば「トクガワペーパー」となった。最近話題になった「ビットコイン」も同じ運命をたどっている。額が低くても、京伝がもらった実質貨幣はありがたいことだったろう。

山東京伝の自宅に原稿取りに訪れている蔦屋重三郎。左の机に座っているのが京伝、まん中でお茶を出しているのが京伝の妻・お菊。右に座る重三郎は、「たとえ足を擂粉木(すりこぎ)にしても通ってきて、声をからし味噌にしても…先生の悪玉の作を願わねばならぬ」と催促している。京伝作画の黄表紙(きびょうし)『堪忍袋緒〆善玉(かんにんぶくろおじめのぜんだま)』(寛政5年〈1793〉刊。蔦屋重三郎版)より。

山東京伝…1761~1816。江戸後期の戯作者。本名・岩瀬醒(さむる)。浮世絵師・北尾政演(まさのぶ)としても活躍。黄表紙、洒落本の第一人者。のちに原稿料で生活した職業作者としては、曲亭馬琴(きょくていばきん)、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)などがいる。

洒落本…遊里での男女の会話を中心にして、遊里の内部や恋の手管を写実的に描いた、遊里小説とも呼ばれるもの。

蔦屋重三郎…1750~1801。江戸の版元。通称・蔦重(つたじゅう)。洒落本、黄表紙などの戯作を次々と出版。東洲斎写楽や喜多川歌麿の浮世絵の版元としても知られる。

寛政の改革…江戸中期、老中・松平定信(さだのぶ)が行った改革。天明7年(1787)~寛政5年(1793)にかけて、棄捐令(きえんれい)のほかに異学の禁、囲米(かこいまい)などが実施された。出版統制も行われた。

手鎖…「てぐさり」とは読まない。江戸時代の刑罰。「てじょう」(江戸時代は「手鎖」とも「手錠」とも表記する)を両手にかけられる自宅謹慎罪で、50日、100日などがあった。前者は5日目ごとに、後者は10日ごとに与力たちが封印を改めに来た。

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