第64回 藤の花と銭の花

 江戸時代からの藤の名所・亀戸天神(かめいどてんじん)では、毎年4月下旬から5月上旬ごろまで藤まつりがおこなわれ、歌川広重(ひろしげ)の絵に描かれたような見事な藤を今も見ることができる。例年、遅咲きの棚では5月中旬まで見られるが、今年はそれも早く終わってしまったようだ。
 江戸の人びとは、桜が散り終わると藤の花に興じた。歌舞伎通の方なら、真っ暗な舞台が一転して明るくなり、大津絵から抜け出したように塗笠をかぶり島田に藤の簪(かんざし)、藤の花模様の着物に藤の枝を片手にかついだ華やかな藤娘が躍る姿を思い浮かべるかもしれない。
 また、「草臥(くたびれ)て宿かる頃や藤の花」という芭蕉の『笈(おい)の小文(こぶみ)』や『徒然草』の「山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる(夕暮れのようにぼんやりとした様子)、思ひ捨てがたき事多し」(19段)の一文を思い出す方もあるだろう。藤は、何とも詩情あふれる風雅な花である。
 藤の花の季節になると、江戸の人びとは夏の陽気を迎えたと、ほっとした。それというのも、寒暖の定まらない季節はまだ暖房の季節でもあり、火事早い江戸では火の元の不用心な時節の火事が怖かったからである。
 例えば、江戸の街並みが初めて大火災に遭(あ)ったのは、幕府開闢(かいびゃく)半世紀を迎えた明暦3年(1657)1月18日(新暦2月21日)の明暦の大火(振袖火事)だった。だが、10万人を超す死者となったとされる大火災を契機に火除地(ひよけち)をもうけ、防災と都市計画の練り直しをする奇貨とすることができた。
 その後の明和9年(1772)2月29日(新暦4月1日)の目黒行人坂(ぎょうにんざか)火事、文化3年(1806)3月4日(新暦4月23日)の牛町火事(丙寅〈へいいん〉の大火)など、火を扱う極寒の時節は用心したから、それより寒さの和(やわ)らぎだす春の季節にかえって大火は多かった。
 ところで、江戸時代、藤の花の名所だった亀戸天神のすぐ隣に、銭を鋳造する広大な敷地の「銭座(ぜにざ)」があったのをご存じだろうか。
 亀戸天神は、寛文3年(1663)、太宰府天満宮を模して亀戸村に遷座、神殿や心字池などが造営された。それから30年ほど後の元禄8年(1695)8月に元禄の貨幣改鋳が行われ、翌々年の元禄10年、亀戸村の検地と同時に1万5000坪余の銭座がこの地に造られた。銭座ができた場所(今の江東区亀戸2、3丁目)は亀戸天神と隣接することから、「天神町」とも俗称されていた。
 銅銭の一文銭が本格的に鋳造されたのは、寛永13年(1636)のことである。これより幕末までに造られた銅銭はすべて「寛永通宝(かんえいつうほう)」の文字が打ち出されていて「寛永通宝」と呼ばれていた。この銭座が本格的に稼働し、「寛永通宝」を大量に鋳造すると、それまで銭不足で高騰していた銭の相場が、幕府のガイドラインに近い相場に修正された。
 銭座は一度廃業し、明和2年(1765)に再開したが、その頃にはすでに亀戸天神は藤の名所となっていた。亀戸村には、風雅な「藤の花」と通俗な貨幣である寛永通宝の「銭の花」が咲き誇っていたのである。7年後、再び銭座は廃止され、跡地は参拝と藤見客相手の料理茶屋が建ち並び町家となった。
 現在の亀戸天神は藤まつりのほかに、「鷽替(うそか)え神事」が正月に行われ、また受験シーズンになると湯島天神と並んで合格祈願でにぎわっている。

亀戸天神の藤見の風景。太鼓橋の手前には、子どもを連れた母親と武家の一行が歩いている。向こうの藤棚の下には連歌の興行が行われた「連歌堂」が見える。『絵本物見岡』天明5年(1785)刊より。 

歌川広重…安藤広重。1797~1858。江戸後期の浮世絵師。江戸の人。代表作は「東海道五十三次」。「名所江戸百景」の「亀戸天神境内」には、満開の藤の花の向こうに太鼓橋が描かれている。

大津絵…江戸時代、近江国(おうみのくに。滋賀県)大津の追分、三井寺あたりで売り出された大衆的な絵画。旅人の土産としても用いられた。代表的な画題は、鬼の念仏・藤娘・瓢箪鯰(ひょうたんなまず)・座頭と犬など。

太宰府天満宮…福岡県太宰府市太宰府にある神社。元官幣中社。祭神は菅原道真。延喜3年(903)没した道真を葬り、その後、勅命で殿舎を造営したのにはじまる。学芸の神様として信仰される天満宮の総本社。

鷽替え神事…太宰府天満宮、亀戸天神などで、参詣人が木製の鷽を取り換え、神主から別のものを受ける神事。昨年の凶をうそにして今年の吉に変える意味があるという。太宰府は正月7日、亀戸は正月25日に行う。

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