第65回 6月の花嫁

 近頃は結婚式を派手にやらない「ジミ婚」も流行っているようだが、やはりジューンブライドで、教会でウェディングドレスを、と夢見ている女性も少なくないことだろう。
 江戸時代、将軍や大名、大家(たいけ)の旗本(はたもと)の結婚式は儀式化した豪華なもので、小身(しょうしん)の旗本や御家人(ごけにん)の結婚式は質素だった。これらは結婚という名の閨閥(けいばつ)作りでもあった。家禄があり、それを守るため子孫を絶やすとお家断絶となる。そうした事態を避けるための結婚で、それは富豪な町人も同じことだった。
 富豪町人とは違って、ごく庶民的な生活をしている江戸っ子たちの結婚はかなり自由であったものの、江戸という土地柄は男性6割、女性4割に近い人口構成だったから、女性の売り手市場で、男性が嫁を貰(もら)うのにひと苦労することも珍しくなかった。
 そうして、ようやく伴侶を迎える結婚式となれば、自宅で夕方からの宴(うたげ)となる。川柳に、
  宵よりも今朝かぶりたき綿ぼうし(『誹風柳多留』41編)
とあるのは、宵からの婚礼で新婦が被る綿帽子は顔がよく見えないほど深く被るが、床入りから一夜明けた朝こそ、家人に顔を見せたくないと恥じらう女性心理をうがった句である。
 江戸時代の庶民の婚礼は「初夜」(夜の8時頃)前後には佳境に入り、やがて参列者たちは家に帰る。落語の「うどん屋」では、婚礼帰りの酔っ払い男が夜中に街中を振り売りするうどん屋の足を止める。酔っ払いは婚礼の話をくどく何度も繰り返し、結局、うどんを食べずに帰ってしまう。そのあと小声で呼び止められ、今度は何杯も注文されるだろうと張り切るうどん屋の期待が外れるサゲになる。三代目柳家小さんのこの落語を、最晩年の夏目漱石が聴いて絶賛したと伝えられる。
 ところで、庶民は嫁入り道具といってもわずかなもので、持参金などの額は知れたものだったろう。それに対し、持参金や着物などの嫁入り道具が多かった嫁は、その持参金を鼻にかけて、舅(しゅうと)や姑(しゅうとめ)を軽くあしらう(図版参照)。
 結婚すると嫁の財産もすべて旦那のものになるというのが江戸の法律だった。女性には所有権も相続権もない、何の権利も認められていない女性の暗黒時代だった。
 だが、夫婦仲がこじれ離婚となると、嫁の父親の出番となる。持参金(持参した田畑の不動産なども含める)は嫁の父親が稼いだ財産であり所有権は父親にあるということで、父親はその返還を別れた旦那に請求できるというシステムだった。だから持参金などの多い嫁を貰うと、その旦那は嫁の舅が生きている限り、舅に頭が上がらなかったわけである。
 今はジューンブライドで、バージンロードを歩くだけの「花嫁の父」でしかないが、江戸時代には、娘に多額の持参金を持たせた父親は威厳のある「花嫁の父」だったのである。

持参金にのぼせて嫁をもらった家族の様子を、人の心が見えてしまう覗替繰(のぞきからくり)でのぞいてみると、右にいる姑と小姑は嫁と気が合わなくて頭から角を出していて、左では鼻に持参金の小判の包を掛ける嫁に旦那が鼻毛を読まれて翻弄(ほんろう)されており、向こうにいる息子は、思い切り買い食いしてやると銭の束を持ち上げている。
式亭三馬作・歌川豊国画の黄表紙(きびょうし)『人間一心覗替繰(にんげんいっしんのぞきからくり)』寛政6年(1794)刊より。 

旗本…江戸時代、将軍直属の家臣のうち、俸禄が1万石未満で、将軍に御目見得(おめみえ)する資格のある者をいう。御目見得以下を御家人という。小身は、身分の低い者の意。

三代目柳家小さん…1857~1930。明治~昭和前期の落語家。安政4年生まれ。常磐津(ときわず)の太夫から転じて落語家になる。初代柳亭(のち談洲楼)燕枝(えんし)、2代小さんらに入門し、明治28年に3代小さんを継ぐ。上方落語を東京にうつした。夏目漱石が「小さんは天才である」と言ったという。

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