第73回 江戸の時計と季節

 アナログ人間か、デジタル人間かと分類するのが、ひと頃流行した。アナログ派である者にとって、駅頭やホームから丸い時計が消えてデジタル時計に変わってゆくのは寂しい気もする。
 今回は、江戸の時間と時計の話である。
 江戸時代の時刻に関する感覚は、おおざっぱだったと思われがちである。確かに落語でも、蕎麦屋へ今何時(なんどき)だと訊(き)く「時そば」とか、女房が時間を間違えて亭主を起こす失敗を描く「芝浜」などでは、一時(いっとき)という2時間単位の時間で演じられているから、江戸時代は2時間刻みの悠長な感覚だったろうと考えられている。
 だが、時計の普及は実は意外に早く、江戸時代半ばの18世紀になると急速に広がっている。江戸城では、寛永20年(1643)には表と中奧のあいだに土圭(時計)之間があって、奧坊主などが将軍の大奥へ入る時刻の管理をしていた。また、大名や格式の高い旗本(はたもと)の屋敷には時計は必需品で、登城に遅刻しないように、10分、20分刻みで生活していたようだ。
 文政7年(1824)に刊行された江戸全域の諸商売の案内記である『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』には、徳川御三家紀州と尾州(尾張)の御用時計師の名前が載っている。江戸市中にも百人前後の時計師が時計の製作・修理に追われていたろう。
 時の鐘で生活するのは時計を持たない下層町人だけで、奉公人のいる商家では置時計や柱時計があった。黄表紙(きびょうし)などには、時計が家具としてよく描かれている。時がくると時計の頭に備え付けの鐘を金属棒が叩くようになっていて、ギィーガチャンと鳴る仕掛けだ。
 気持ちを新たにさせて物事を始めることの比喩(ひゆ)として「ねじを巻く」という言葉があるが、これは時計のねじを回してゼンマイを巻くことからきている。置時計は手で巻くねじ巻き式であり、柱時計はぶら下がっている紐(ひも)を引っぱってねじを巻いた。厳格な主人は時間にもうるさく、自分でねじを巻き、時計を管理することも多かったようである。
 そんな時計を修理する時計師の姿は、早くには『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』(元禄3年〈1690〉刊)に見え(図版参照)、江戸では3人の時計師がいると名前を挙げている。
 毎年、夏の猛暑対策で、クールビズだけでは間に合わず、朝の時間を繰り上げるサマータイムの導入を言いだしているが、猛暑が過ぎ、秋分の日も過ぎたら話は立ち消えになってしまう。
 江戸時代には、すでにサマータイムが導入されていたと聞くと、びっくりする向きもあろう。昼と夜の長さが同じになる春分・秋分は一時(いっとき)を2時間とし、日の長い夏の季節には昼間の一時を2時間より若干長めにして朝早くから活動し、逆に冬は昼を短くしたのである。してみると、江戸時代のほうが現代より季節に適応させる生活の智恵が働いていたということになる。

左には時計の修理をする時計師が描かれている。『人倫訓蒙図彙』(元禄3年〈1690〉刊)より。

時の鐘…時刻を知らせるためについた鐘。二代将軍秀忠の時代、江戸市中で最初に本石町(ほんこくちょう)三丁目(現 日本橋室町四丁目)に設置され、後には数か所に設けられた。

『人倫訓蒙図彙』…江戸中期の事典。当時の職業500以上について、職能や由来などを挿絵とともに解説している。著者未詳。前半の挿絵は蒔絵師の源三郎(げんざぶろう)とされる。

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