第75回 弥次さん北さん

 「弥次(やじ)さん・北さん」といえば、江戸の戯作者(げさくしゃ)十返舎一九(じっぺんしゃいっく)のベストセラー『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』に登場する主人公、弥次郎兵衛(やじろべえ)・北八のことで、いまも、二人旅をするときに「弥次さん・北さんみたいだね」と言うことがある。「弥次さん・北さん」という言葉は、この作品が生まれてから200年も生きている。
 今年は一九の生誕250年にあたる。11月には、一九の故郷である静岡市の「十返舎一九顕彰会」が、一九の墓碑がある東京都中央区の東陽院で記念イベントを行うという。
 一九の生涯はベールに包まれているところが多い。さまざまなエピソードが伝えられていて、その最たるものは、花火を体に巻き付けるように弟子に遺言し、荼毘(だび)に付すと数条の光の筋が走り参列者を驚かしたという話である。じつは、これは怪談落語の名人林屋正蔵(はやしやしょうぞう)のエピソードとの混同なのだが、相変わらずテレビなどで、この虚像が紹介されることがある。
 ところで、一九の名が日本中に知れ渡ることになった『東海道中膝栗毛』は、ひょんなことから生まれた作品である。一九は、婿入りして失敗し、潤筆料(原稿料)で食っていかなければならなくなり、潤筆料の高い洒落本(しゃれぼん)をせっせと書き出した。そんな折、本屋の村田屋治郎兵衛から、東海道の名所旧跡の狂歌を詠(よ)んだ楽しい本を作ってくれと依頼された。
 十代の若いときから江戸と大坂を東海道で往復している一九にとっては、最適な要望だった。だが、東海道を詠む狂歌集のような本では芸がないと考えた一九は、村田屋が主宰する落とし噺(小咄。こばなし)の会で持ち寄られた笑い話をネタにしようと考えた。
 一九は、神田の八丁堀あたりに住む弥次郎兵衛と居候(いそうろう)の北八のお伊勢参りの二人旅を思いついた。初編は、川柳にはじまり狂詩や狂歌を織り交ぜて、二人を箱根まで旅させて終わる。一九自身が経験した、あるいは耳にした旅の失敗談に、狂言や滑稽話を重ねて、ちょっぴり下品な笑いで包み、弥次さん・北さんのドタバタ喜劇の旅として滑稽本(こっけいぼん)『東海道中膝栗毛』を書いた。
 これが、お伊勢参りなど全国の名所巡りの旅行熱が高まった時流にマッチして、売れに売れた。洒落本の刊行禁止により潤筆料を稼げなくなって、その弱り目の時に再婚もした。そんな一九が、幸運にも大ヒット作に恵まれたのである。一九は『道中膝栗毛』に賭け、続編を次々に出した。弥次・北の凸凹コンビが、東海道にはじまり諸国を旅しながら失敗する『道中膝栗毛』シリーズは出すたびにヒットして、一九にとってドル箱となった。
 落語の「三人旅」は『道中膝栗毛』をイメージして作られたものであるが、その後、弥次・北の『道中膝栗毛』をもとに漫画や映画なども作られて、現代の庶民の楽しみとなっていった。
 一九が原稿料欲しさに書いた小説が、皮肉にも現代でも生きているのである。
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小田原の宿の旅籠(はたご)に泊まったふたり。五右衛門(ごえもん)風呂の湯につかる弥次さんと、その様子をのぞきに来た北八。このあと、北八が風呂の底を下駄で踏み抜き、大騒ぎとなる。『東海道中膝栗毛』初編(享保2年〈1802〉刊)より。
十返舎一九…1765~1731。江戸後期の戯作者。本名・重田貞一。駿河府中(現静岡市)、奉行所同心の家の長男として生まれる。大坂で浄瑠璃作者となり、寛政4、5年(1792、3)に江戸に出て蔦屋重三郎に寄食する。寛政7年(1795)に黄表紙(きびょうし)を発表し、以後、洒落本、滑稽本、読本(よみほん)、咄本(はなしぼん)など、次々に出版した。ベストセラー『東海道中膝栗毛』は初編から8編までの18冊、その後、続編、続々編(天保2年〈1831〉)まで刊行された。
林屋正蔵…1780~1842。初代。文化年間(1804~1818)怪談噺を創始。戯作もよくして、二代鹿野武左衛門を名のる。
洒落本…江戸後期小説の一様式。遊里を舞台に、男女の会話で遊里の内部や恋のてくだを写実的に描いたもの。一九は吉原・中田屋の新造勝山と馴染(なじ)みになったこともある。
第75回 弥次さん北さん
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