第76回 大根3題―「千六本」「大根役者」「練馬大根」

 これから大根の美味しい季節になる。
 大根は三冬(さんとう。冬の三か月のこと)の季語で、とくに11月の季語として俳諧では詠(よ)まれている。芭蕉の句がある。

 鞍壺(くらつぼ)に小坊主乗るや大根(だいこ)引き

(『炭俵』)

 一家総出で大根の収穫に忙しく、帰りに大根を乗せることになる馬の背の鞍に、ちょこんと坊主が乗っているという冬の大根畑の田園光景を詠んだ句である。
 現代は、品種改良やビニールハウスなどの普及で、大根は季節を問わずスーパーマーケットに並んでいる。食材が豊富になったこんにちでは、大根は冬の食卓を飾る代名詞とはいかなくなったが、江戸時代では、街中へ大根売りがやって来ると、いよいよ本格的な冬の到来となる。
 大根の食べ方は色々あるが、「千六本(せんろっぽん)」に切る調理方法もある。「千六本」は中国語の「繊羅蔔(センロフ)」(大根のこと)が語源で、センロフ→センロウポ→センロッポンと日本語化したのである。『日葡(にっぽ)辞書』には「センロフ」という語で出てくるから、17世紀頃までは中国語に近い発音で呼ばれていたことがわかる。その『日葡辞書』によれば、「サラダ(和物=あえもの)にするため細くうすく刻んだ大根」とあり、ポルトガル人には大根の千六本の食べ方がサラダ風に見えたというのも面白い。
 江戸時代も半ばすぎの天明年間(1781~88)頃には、芝神明前(港区麻布飯倉町)にあった、なこ屋が「早業(はやわざ)八人前」と名付けて売り出した野菜千切り器(いまの「スライサー」)が、大根を千六本に切るのに便利だと評判だった。山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)『時代世話二挺皷(じだいせわにちょうづつみ)』(天明8年〈1788〉刊)には、このスライサーを使っているところが描かれている(図版参照)。
 江戸時代の大根の調理方法としては、千六本に切って膾(なます)にするか、漬物にして保存食とするのが代表的なところであったが、大根は、どんな食べ方をしても食い合わせが悪いということがなく、食中毒にもならないことから「当たらない」食材だといわれた。
 そのことから、どんな役柄を演じても「当たらない」俳優を「大根役者」というようになったとの語源説がある。また、大根は色が白いことから「シロウト」に通じ、演技が下手な素人役者のことを「大根役者」と呼ぶようになったともいわれる。
 昔、秋の収穫時にやって来る田舎回りの旅芝居一座の舞台に、見物客の農民たちが収穫物の大根を上げたりしたのは大いなる皮肉か、それとも年に一度の恒例の娯楽を提供してくれたことへの感謝か、微妙なところであった。
 江戸では大根と言えば「練馬大根」だったが、本郷湯島にあった大根畑を連想する向きも少なくなかった。江戸も後期になると、この辺の畑に町屋ができて、一角の新開地には怪しげな茶屋が数十軒並んでいた。上野の山下、根津権現前から湯島の大根畑にかけて、岡場所(おかばしょ。私娼街)が形成され、国に妻子を置いて江戸へ出て来た独身の勤番侍たちが客でもあった。
 練馬大根は、江戸の町家や武家屋敷、繁華街から糞尿を練馬まで運び、それを肥料にして作られていた。化学肥料もなく、トラックもない江戸時代では、肥やしの糞尿を大八車(だいはちぐるま)に積んで運ばなければならなかったから、農民たちの苦労は大変だった。それを横目に見て、「大八車を引くと、腹がへりま大根」などと地口(じぐち)を言っていた江戸っ子たちは気楽なものだった。 

将門(まさかど)が6人の影武者とともに、一所懸命に大根を刻んでいるところに、俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと)が現れ、懐中(かいちゅう)より「早業八人前」を出して、将門たちより1人前多い8人前のなますをたちどころにこしらえて、将門をへこませているところ。(『時代世話二挺皷』天明8年〈1788〉刊より) 

『日葡辞書』…イエズス会宣教師数名の編集により、日本語約3万2800語をポルトガル語を用いて語釈した辞典。慶長8年(1603)本篇刊、翌9年補遺刊。

山東京伝…1761~1816。江戸時代後期の戯作者・浮世絵師。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)作者の第一人者。

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