第92回 地獄とエンマ様

 お盆休みは海外旅行という御時世になった。
 江戸時代も後半になった江戸では、お盆休み(7月16日前後の休み。「藪入〈やぶいり〉」)というと、奉公人は日ごろ行けないところへ行ったり、閻魔堂(えんまどう)をお参りし親元へ帰ったりするわけだが、それが海の向こうの海外とは夢にも思っていなかったろう。
 お盆休みには「地獄の釜の蓋(ふた)が開く」と言った。地獄で罪障(ざいしょう)を犯した者を裁く閻魔様も休暇をとるだろうと見立てたところから生まれた言葉だった。と言っても、本物の閻魔様は、あの世の地獄にいて六道(ろくどう)の辻から地獄へ行かないと逢えないわけだが。その閻魔様を祀(まつ)った閻魔堂は江戸のあちこちのお寺にあり、幕末成立の『東都歳事記(とうとさいじき)』によれば66箇所だというから、閻魔堂を巡る閻魔様なかなか忙しかったようである。
 閻魔信仰の背景には儒教や仏教思想があったようだが、心学(しんがく)の流行も閻魔信仰熱を煽(あお)ったようでもある。日ごろ主人に忠義を尽くしていない奉公人のなかには、貧乏神と間違って、「私を地獄から呼びに来ないで下さい」と祈願した者がいたかも知れない。
 江戸っ子は三大祭りとか、「三大」何とかと冠するのが好きで、江戸の三大閻魔堂というものがあった。文化年間(1804~18)の創建になる新宿太宗寺(たいそうじ)に閻魔堂ができると、この新参の閻魔様を含めて三つの閻魔堂に祈願することが多かった。ほかのひとつは、蔵前・華徳院(かとくいん)の閻魔堂(浅草閻魔堂とも。現在は杉並区にある)である。 
 残るもうひとつの閻魔堂が、深川法乗院(ほうじょういん)の閻魔堂であった。河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)作の歌舞伎「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)」(明治6年6月中村座初演)で、悪漢の弥太郎源七が髪結新三(かみゆいしんざ)を殺害の前に言い放つ名台詞(せりふ)、

    丁度所も寺町に、娑婆(しゃば)と冥土(めいど)の別れ道、その身の罪も深川に、橋の名さえも閻魔堂、こんな出会いもそのうちに、てっきりあろうと懐(ふところ)へ、隠しおいたこの匕首(あいくち)、刃物があれば鬼に金棒、どれ血まぶれ仕事だ覚悟しろ…

は、有名な「深川閻魔堂橋の場」である。
 山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)『照子浄頗梨(かがみのじょうはり)』(寛政2年〈1790〉刊)では、六道の辻から地獄見物に行ったという伝説のある小野篁(おののたかむら)が当世風の地獄を巡る。篁が地獄で目にしたものは、釜の蓋は開きっぱなし、火の車の炎は消え、浄頗梨の鏡は曇り、業(ごう)の秤(はかり)も折れているという不景気ぶりであった(図版参照)。
 寛政の改革で、武士はもちろん庶民にいたるまで身を慎み学問に励み倹約したのはよかったものの、世の中から浮かれ気分が抜け経済は冷え込み、不景気風が吹き荒れていた。この黄表紙は、江戸の世相を当てつけたものであった。
 この不景気風は遊廓も直撃し、7月15、16日は吉原では大紋日(おおもんび)といって特別料金で遊女は着飾る日だったのだが、天明7年(1787)11月の火事で吉原は全焼、江戸の各地にできた仮宅(かりたく)での仮営業がつづき吉原の復興もままならず、寛政元年(1789)の暮れには、吉原の代表者たちは幕府へ1万5000両の融資を嘆願する。
 だが、吉原なんぞは潰(つぶ)してしまえ、という幕府の高官もいて、幕府の返事はNO、復興は思うにまかせず、寛政元年の一年中、地獄もそうだが吉原もまた、釜の蓋が開いたたまま開店休業のありさまで、閑古鳥(かんこどり)が鳴いていたらしい。

不景気で開店休業の地獄。右に立つ人物が小野篁。(『照子浄頗梨』寛政2年〈1790〉刊より)

河竹黙阿弥…1816~1893。歌舞伎脚本作者。江戸の人。五世鶴屋南北の門に師事。二世河竹新七を襲名。とくに世話物を得意とし、明治期の活歴物や散切物(ざんぎりもの)にも多くの好評作品を残した。

山東京伝…江戸後期の戯作者・浮世絵師。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)の第一人者。寛政の改革で手鎖(てじょう)50日の筆禍を受けた。

小野篁…802~852。平安前期の公卿(くぎょう)。漢学者・歌人。遣唐使副使となったが、大使藤原常嗣(つねつぐ)との争いで、一時、隠岐(おき)に流された。詩文に長じて名高い。

寛政の改革…江戸中期、田沼時代の後、徳川家斉(いえなり)が十一代将軍になると、老中・松平定信(さだのぶ)を登用して行った幕政改革。緊縮財政と風紀の刷新をはかった。

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