第100回 百川と百万都市・江戸

 ここに このコラムも百回を数えることになった。
 百が付く言葉は、数が多くてめでたいとか、沢山(たくさん)あることの形容として使われる。幸福、幸運の多いことを言う「百福」などは、めでたさと数の多いことが合体した言葉である。
 百万長者とか、百万ドルの夜景とか価値の高いことを「百万」と言い、今日では百万では足りずに億万長者と呼ばれる。今から230年ほど前の天明年間(1781~89)には江戸は百万都市だったというが、それは人口が多いという形容ではなく、江戸は文字通り百万人が住む都会になっていた。
 天明6年(1786)、江戸の町人だけで100万人を超えていたという。それから5年後の寛政3年(1791)の江戸の人口調査では、江戸の武士は「2億3600万人余」居住していたとされる。現在の日本の人口より多いではないかと驚かれるだろうが、その心配はない。『塵劫記(じんこうき) 』という算術書によれば、当時は「10万」のことを、「億」と称していたのである。だから、武士は約23万人いたことになり、江戸は、町人と武士(その家族や使用人など)とを合わせると百万都市どころか、およそ150万人余がひしめく過密大都市だったのである。
 その大都市の賑(にぎ)わいの中心であったのが日本橋であり、さまざまな店が軒を並べて多くの人々が行き交っていた。この日本橋に「百川(ももかわ)」という有名な料理茶屋があった。縁起のよい「百」を「もも」と訓(よ)んだのである。今の日本橋三越本店の向かいのあたり(中央区室町3丁目)に料亭はあり、その小路は「浮世小路」(「うきよしょうじ」とも「うきよこうじ」とも)と呼ばれていた。
 この料亭を舞台にした落語「百川」には、田舎者の百兵衛(ひゃくべえ)という使用人が登場する。百兵衛は、口入屋(くちいれや。斡旋所〈あっせんじょ〉)から紹介されてやって来た、今で言えば派遣社員のような人で、百兵衛がやらかすドジな間違いの顛末(てんまつ)が描かれている。
 店で酒を呑(の)んでいた河岸(かし)の若い者から、当時、長谷川町(はせがわちょう)の三光新道(さんこうじんみち)に住んでいた男芸者「亀文字(かめもじ)」(落語では常磐津〈ときわづ〉の師匠ということになっている)を呼びにやらされた百兵衛は、江戸の土地と事情がよくわからず、同じ長谷川町に住む外科医「かもじ」先生こと、鴨地玄林(かもじげんりん)を呼んでくる。その間違いでひと騒動があったあと、河岸の若い者にドジな間違い野郎と怒鳴られる百兵衛は、「か・め・も・じ…、か・も・じ、たんとではネエ、たった一字違(ちげ)えだ」というのがオチである。
 この落語は、百川での実話をもとにしている。実際の百川の店構えと座敷の様子は、大田南畝(おおたなんぽ)黄表紙(きびょうし) 『頭(あたま)てん天口有(てんにくちあり)』(天明4年〈1784〉刊)に見ることができるが(図版参照)、落語で聞く店の様子とはずいぶん違っている。左の書斎風の部屋は百川の座敷であり、座っている店主は中国人風に描かれている。右の門に向かって歩いているのは当時の最先端のお洒落なファッションで身を包んだ客である。百川は、中国風の卓袱(しっぽく)料理で知られており、文人たちがこぞって集っていた。
 百川がそんな通人(つうじん)たちで賑(にぎ)わい、百兵衛が叱られたような話が生まれた天明の時代、江戸はすでに百万都市になっていたのである。

『頭てん天口有』(天明4年〈1784〉)刊より。 

『塵劫記』…江戸前期の和算書。吉田光由(みつよし)著。寛永4年(1627)刊。日本初の算術書で、中国の「算法統宗」を規範として、計量法、そろばんによる計算法などをわかりやすく解説したもの。

大田南畝…1749~1823。江戸後期の狂歌師・戯作者(げさくしゃ)。幕臣。別号、蜀山人(しょくさんじん)、四方赤良(よものあから)、寝惚(ねぼけ)先生など。天明狂歌の代表的作者で、天明文壇をリードした。狂詩文にもすぐれ、洒落本(しゃれぼん)・黄表紙・滑稽本(こっけいぼん)なども著した。

黄表紙…滑稽・風刺(ふうし)をおりまぜた大人向けの絵入り小説。安永4年(1775)から文化3年(1806)頃にかけて多数刊行された。

(お知らせ)
本コラムの執筆者・棚橋正博先生がNHKカルチャーラジオ『弥次さん喜多さんの膝栗毛』に出演されています。NHKラジオ第2放送、毎週木曜日午後8:30~9:00。再放送は金曜日午前10:00~10:30です。
 

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