第101回 江戸の紅葉めぐり

 凩(こがらし)の季節を迎え、関東も各地で紅葉の見頃となっている。TVの宣伝文句ではないけれど、桜の名所は楓(かえで)の名所でもあることが多いという。
 ソメイヨシノで有名な染井村(豊島区・駒込)は、江戸時代、秋の風物詩の楓見物でにぎわっていた。隣接する菊作りで人気があった巣鴨村からここまでずっと植木屋が並び、植木職人が競って秋を彩る種々の楓を育てていた土地柄だった。
 染井村の名前が全国的に有名になったのは、この村の植木屋の手によって桜の品種改良がなされ、古来桜の名所として名高い奈良の吉野と染井村から命名したソメイヨシノが生まれたからである。明治になって全国に植えられ、桜といえばソメイヨシノになったわけだ。染井村は、桜や楓だけでなく四季の草花の苗木を育てる植木職人の村でもあった。
 「染井植木屋、百種の楓あり」と、幕末生まれの俳人・時雨庵尋香(しぐれていじんこう)が安政6年(1859)に書き記した『武江遊観志略(ぶこうゆうかんしりゃく)』にある。幕末の江戸周辺の年中行事と風物詩を紹介しながら、「紅楓(もみじ)、立冬より7、8日目ごろより」見頃になるとして、江戸と近郊の名所を挙げている。もう9年ほど経つと明治になる。
 現在は、六義園(りくぎえん)小石川後楽園(こうらくえん)など、かつての大名の庭園が紅葉の名所となっているが、江戸時代は大名屋敷や江戸城は開放されていなかったから、庶民が楽しめた紅葉の名所は、おもに神社仏閣の境内などであった。
 『武江遊観志略』に挙げられる紅葉の名所をたどってみようと思うが、幕末から今までのわずか150年のあいだに、紅葉の名所もだいぶ移り変わっているようだ。
 「東叡山(とうえいざん。上野寛永寺)」、「根津権現(ねづごんげん)境内」、「浅草観音奥山」などは、今では観光名所となり外国からの観光客でにぎわっている。この遠来の客たちは神社仏閣の前での記念写真ばかりで、紅葉を楽しむ風情を感じないのだろうか。
 「谷中(やなか)天王寺(てんのうじ)」は「東叡山」から「根津権現境内」へ回るコースにあったろうし、北へ向かうと「滝の川(北区・滝野川)」、ついでに飛鳥山(あすかやま)を見て王子稲荷(おうじいなり)の参詣ということだったろう。
 また、西へ向かうと「大塚護国寺(ごこくじ)境内」や早稲田の「高田穴八幡(あなはちまん)境内」、そしてもう少し足を伸ばすと、新宿の宿場に近い「角筈(つのはず)十二所権現(じゅうにしょごんげん)社内」や「大久保西向(にしむき)天満宮境内」、南に向かうと「増上寺(ぞうじょうじ)弁天池辺」も、幕末には紅葉が盛りだったようである。
 江戸の南には紅葉の名所が多くあった。「品川東禅寺(とうぜんじ)」や「鮫洲(さめず)海晏寺(かいあんじ) 」が代表格で、「目黒竜泉寺(りゅうせんじ。目黒不動)近年少し」とあるから、明治に近い幕末には竜泉寺の紅葉は盛りが過ぎていたのかもしれない。川柳では、こう詠(よ)まれている。

目黒から廻るはまだも律儀者(りちぎもの) 

             (『誹風柳多留』19編)

 目黒不動の縁日28日(正月・5月・9月)には不動参詣を口実に品川遊廓へ遊びに行く者が多かった。この川柳は、いちおう不動参詣してから品川遊びをするのは律儀者だとするわけで、参詣と紅葉見物を終えると品川に向かう者も少なくなかった。品川泊まりになったので、家人のご機嫌をうかがうために目黒不動の門前で売られていた名物の餅花(もちばな)や、名代の桐屋で売られていた飴を手土産にした者も多かったろう。 

海晏寺の紅葉見物。茶店の床几(しょうぎ)で紅葉を愛(め)でながら飲食する客たち。『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』(天保5年〈1834〉)刊より。

時雨庵尋香…小川氏。1819~1901。文政2年生まれ、明治34年没。幕臣。幕末・明治の俳人。高梨一具の門弟となり一具庵と称した。

六義園…東京都文京区本駒込にある庭園。元禄15年(1702)に完成した柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の下屋敷の庭。池泉回遊式庭園。

小石川後楽園…東京都文京区小石川にある旧水戸藩中屋敷の庭園。回遊式庭園。明暦(めいれき)の大火で全焼したが、寛文9年(1669)頃に光圀(みつくに)が完成した。

海晏寺…東京都品川区南品川にある曹洞宗の寺。建長3年(1251)、北条時頼の創建、大覚禅師の開山と伝えられる。

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