第106回 初午は乗ってくる仕合せ

 江戸時代、初午(はつうま)の日(2月の初めに巡ってくる午の日。今年は2月6日だった)は縁起がよく、物事を始めるのに良い日だとされた。
 初午にかかわるこんな話が、元禄元年〈1688〉年に刊行された井原西鶴(さいかく)の浮世草子(うきよぞうし)『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』の劈頭(へきとう)を飾っている(「初午は乗つてくる仕合(しあわ)せ」)。
 初午の日、泉州(せんしゅう。大阪府貝塚市)にある水間寺(みずまでら)は参詣人が多かったが、この寺には古くからのある風習があった。参詣した折に、寺に借銭するとご利益があるというのだ。お寺から3文(もん)、100文と銭を借りたとすると、翌年に借りた倍の6文、200文を返すという習わしであり、信者は決まって「倍返し」したものだった。
 ある年の初午の日、年の頃なら23、4歳の質素な身なりをした男が水間寺へやってきて、「借り銭を一貫文(いっかんもん)欲しい」と言った。一貫文とは1両の4分の1、すなわち1000文(実際は960文)である。寺の役人は例のない高額で驚いたが、きっと倍返しをしてくれるだろうからと一貫文を渡したところ、男は借りたまま行方が分からなくなってしまった。
 じつはこの男は、江戸の小網町(こあみちょう。中央区日本橋)のはずれで船問屋(ふなどんや)「網屋(あみや)」をしている者であった。水間寺で金を借りて、漁師たちに貸付けようと大坂までやってきたのである。江戸に戻った男は、「仕合丸」と書いた引出しに水間寺の銭を入れておき、漁に出る漁師たちに、これは水間寺で借りた縁起がいい金だからと言って貸付けていた。その噂(うわさ)が広がって、漁師たちは100文借りたなら、無事に漁から帰ったら倍の200文を返すという具合に、倍返しが定着した。そして13年目になると、それが積もり積もって、8192貫文(819.2万銭)にまで増えた。
 そこで男は、この銭8192貫文を「通し馬」(東海道を江戸から泉州まで同じ馬で運ぶ)で水間寺まで運び、お礼参りをしたのである。
 初午の日に借りた1貫文が、13年目におよそ8000倍、当時の換金レートにすると2048両に膨れあがった。ちなみに、これを西鶴は逆に、「借銀(かりがね)の利息程おそろしき物はなし」と慨嘆している。今でもローンの複利計算の利息は「おそろしき物」であろう。
 さて、この男は、江戸から大坂まで銭8192貫文を返しに行くのに205頭の馬を連ねて行った。当時、駄馬(だば。荷物を専門に運ぶ馬)1頭に積める荷は40貫(約150㎏。銭は約4万文を積める)と決められているから、銭8192貫文を運ぶには205頭の駄馬が必要となる。
 ふつう駄馬は、2里運んで42文、江戸と大坂は130里とされるから、この計算でゆくと、1頭あたり(130里÷2里=65)×42文=2730文(約0.68両)の経費がかかる。帰りの空馬代を合わせて、1頭につき1両ほど運賃がかかったとすると、雇った通し馬205頭なら205両になり、2048両運ぶのに205両の運送費がかかった計算となる。
 一方、定飛脚(じょうびきゃく)の江戸為替での送金は手数料が5、6%程度だから、5%で計算しても、2048両×5%=102.5両となり、江戸為替のほうが半分の割安になっていた。
 約2倍の経費をかけてまでなぜ馬で運んだと思うだろうが、そこには男の計算があったのである。
 つまり、たとえ輸送費が高くついても「網屋」の宣伝になると男は考え、通し馬で東海道をパフォーマンスしながら水間寺に銭を運んだ。そんな宣伝上手のアイディアマンだった故に、この男は、西鶴がいう「親の譲りを受けず、その身才覚にして稼ぎ出し」儲(もう)けて、「武蔵にかくれなし」と、今で言えば首都圏でも有名な富豪になったという。
 親譲りの資産がなくても金持ちになれたという例は、現代で言えばIT産業の起業家が莫大(ばくだい)な資産を築いたものに匹敵しよう。
 だが、小説のモデルになった「網屋」の栄華も長く続かず、その存在は早く人びとの記憶から消えてしまったと西鶴は結んでいる。ひょっとしたら現代のIT産業で富豪になった場合も、アイディアが続かないと、この男の二の舞になるかも知れない。

はるばる江戸から大坂の水間寺まで銭を運んできた通し馬。運送馬(駄馬)の腹当には、道中事故がないようにと縁起のよい「仕合」「吉」「宝」という文字を書くのが通例であった。(小学館『新編日本古典文学全集68 井原西鶴集3』より)

井原西鶴…1642~93。江戸前期の浮世草子作者・俳人。大坂の人。俳諧では矢数俳諧を得意とした。庶民の生活を写実的に生き生きと描いた浮世草子の名作を多数書き、『好色一代男』『好色五人女』などの好色ものや、経済小説とも言える『日本永代蔵』『世間胸算用(せけんむねさんよう)』などで知られる。

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