第 6回 ようこそ「おたご」の国へ!

 タイに行ったら、きっとトゥクトゥクに乗ってバンコクの街を回るだろうと、ぼくは想像していた。むかしマドラスに住んでいたとき、よくオート・リクシャーの世話になったが、トゥクトゥクも同じ三輪タクシーだ。通常のタクシーより料金が安く、そのかわり乗客は二人しか乗れない。でも今度は、妻との二人旅なのでちょうどいい。日本で出会うチャンスはまずないし、遊園地のゴーカートみたいな楽しさがある。ただ、しっかり交渉しないと、ぼられるだろうから、そんな心構えをタイ航空の機内で早々と整えていた。
 ところが、バンコクに着いて街探険を始めてみると、トゥクトゥクには用がないことに気づいた。ホテルから歩いて5分のところに、スカイトレインという高架式鉄道の駅があって、乗り心地がよく電車の本数も多く、なかなかの優れものだ。デパートと娯楽施設が渦巻くサヤーム・スクエアまでほんの2駅で、そこからもう1本のスカイトレイン路線に乗り換えられる。動物園へ行くには、戦勝記念塔のアヌサーワリー・チャイ駅で降りて、駅前広場からバスが出ている。チャオプラヤー川で船に乗って寺巡りをしようと思ったら、まずスカイトレインでタークシン橋まで出て、すると駅前が船着き場になっている。いつの間にかもう波に揺られていた。
 さらにはMRTと呼ばれる地下鉄もあって、スアン・ルム・ナイトバザールを冷やかしに行ったときも、人形劇を観に行ったときも利用した。すさまじいバンコクの交通渋滞を毎日、目撃はしたが、一度も巻き込まれなかった。そして結局、トゥクトゥクは乗らずじまいだった。
 トゥクトゥクのネーミングの語源について、ホテルのコンシェルジュに尋ねたところ、彼は最初きょとんとして、それから頭を前後に少し揺らしながら「トゥクトゥクトゥクトゥク」と息を吐いて見せた。小型のエンジンが排気ガスを出す音を模した言葉だという説明だったが、ぼくもそうじゃないかなと思っていた。信号待ちしているトゥクトゥクの排気管に耳を傾ければ、まるで自己宣伝をしているかのようで、まったく見事な擬音語だ。
思えば街を歩くとき、ぼくらはトゥクトゥクの排気ガスをずいぶん吸っていたはずなので、乗らなくても一応その本質には触れたと言えるかもしれない。

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 スカイトレインの車内広告が面白く、その写真やロゴマークの意味を読み解こうとしたり、読めないタイ語の文字を目でなぞったりしていた。ホームの上にも、大きい看板がずらずらと掲げられ、電車が来るまではぼんやり見上げていることが多かった。サヤーム・スクエア駅だったか、それともサラデーン駅のホームだったのか、清涼飲料水と携帯電話のタイ語の看板に交じって、こんなローマ字の書かれたやつもあった―― YOKOSO! JAPAN Visit Japan 2010
 正確には3枚のYOKOSO!看板が並べられ、季節外れの満開のソメイヨシノの写真がそのどれにも添えられていた。真ん中の看板は、武士に扮して丁髷(ちょんまげ)を結った青年がでっかく写り、その背後には立派なお城の天守閣が構えている。左側のもう1枚に、武士と向き合う形でアニメから引き抜かれた目の大きい少女が立っていて、彼女のバックには東京かどこかの現代風大都会のビルが林立している。そして右側の1枚はチェリーブロッサムとYOKOSO! JAPANと、それからタイ語の説明文らしきもの。小さくJALとANAとCanonのロゴマークもあしらってあるが、本当の広告主はきっと日本政府の国土交通省、なかんずくその外局の観光庁だろう。
 スカイトレインがすっと入ってきて、こっちはすぐ運ばれて行ったが、看板の残像を浮かべながら考えた。20年ばかり前、アメリカから日本に渡ったころ、「日本人がまだ丁髷を結ってサムライの格好をしてると、そんなイメージを持つ外国人も少なくない」と、ときどきいわれたものだ。世界がジャパンを正しく理解していない例として、サムライの時代錯誤はわりとポピュラーだった。今やトレンディーに思われるからなのか、日本政府が自ら進んでサムライをPRの顔に起用している。しかし正しい理解とは今でも言えないはずで、向こうを張っているアニメのキャラクターと、どっちもフィクションの産物だ。つまり、自国をテーマパークと同じ次元で売り込むキャンペーンであり、それ自体が間違っているとは断言できないが、ある種の逃避というか、ずるさは感じられる。
 広告につられてジャパンのトリップを決行した人々が、春の桜満開の数日を外してしまった場合は、YOKOSO!看板のイメージから完璧にかけ離れた現実に遭遇することになる。もしや、国土交通省のもうひとつの外局である??気象庁が、2009年のクリスマスに「桜の開花予想を2010年春から行なわない」と発表したのには、このYOKOSO! JAPANキャンペーンと関係があったのか。つまり、外国人観光客がジャパンのオフィシャルなインフォメーションを頼りに、開花予想に合わせて旅程を組んでやってきた場合、クレームがわんさか出る可能性もあるので、適当に打ち切って責任を逃れようとしたのかも?

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 満開のYOKOSO!看板に出くわした翌日、また妻と二人でスカイトレインに乗ってサヤーム・パラゴンという巨大デパートへ出かけた。本館の中央部分が円筒形の吹き抜きになっていて、まず最上階まで上がり、世界の高級ブランドやタイのデザイナーのショップを覗きながらくるくる下りて行った。オノボリサン気分にだんだんなって、同時にオノボリサンでなにが悪いかと開き直り、おまけに小腹もすいてきた。やがて1階にたどり着いたとき、妻はつぶやいた。「タイのデパ地下も見ておかなくちゃ」
 エスカレーターで下りてみれば、それはそれは広大な輝かしい食品売り場だった。好奇心に駆られて、青果から乾物から冷凍食品まで、時間を忘れて物色した。妻はタイ料理が大好きで、トム・ヤムやセンレックのスープをわが家でも再現できるスパイスのセットを探し、その間、ぼくは隣のセクションのインスタント麺とスープの類いを点検していた。そこでついぞ見かけたことのない日本の商品を発見した。
箱に縦書きの平仮名で「おたご」と印刷してある。どうやら売れ筋らしく、ちょうど目の高さの棚を幅広く占めていて、ほうれん草と卵、カニ蒲鉾と卵、それから椎茸マッシュルーム味の3種類が並んでいる。5個入りの箱だけでなく、ばら売りのコーナーもある。その1食分のパッケージはクレジットカード大で、厚みが2センチほどだ。箱と同じ平仮名で、ちゃんと1個ずつ「おたご」と綴られている。
椎茸のやつを手に取り、スパイスに夢中の妻のところへ戻って聞いた。「ね、『おたご』って、どういう意味?」
 「は? 『あたご』じゃなく……?」と返ってきた。
 ぼくはいきなり千葉県の野島崎が頭に浮かんだ。その沖合で2008年に海上自衛隊のイージス艦がマグロ延縄(はえなわ)漁船に衝突、船長が命を奪われた。あのイージス艦の名が、「あたご」だった。
 あるいは「おたく」のミスプリか? mangaだのmoeだのと同様にotakuもちょっとした越境流行語になっている。ま、限られた人間以外は、多分あまりおいしそうなイメージではなかろう。それにパッケージの隅のローマ字もOtakuでもAtagoでもなく、ばっちりOtagoとあるので、ミスとは考えにくい……。
 3種類の「おたご」のうちの2種類には卵が含まれていて、また、割れた卵にも似た楕円形が、文字のバックに黄色く描かれているので、ひょっとしたら最初は「おたまご」か「おったまご」のつもりだったのか。それなら「ま抜け」なネーミングとバカにされかねないが、ローマ字のほうのOtagoを見つめていると、どうしてもNew Zealandとの関連が気になってくる。というのはニュージーランドの南島の行政地区にOtago Regionというのがあり、バンジージャンプ発祥の地のクイーンズタウンとか、オタゴ大学の街ダニーデンを抱えていて、美味なワインもたくさん産出している。ただ、インスタントのエッグスープを作っている話は聞いたことがない。「おたご」の箱にタイ語と英語と両方の表示が並んでいるけれど、New ZealandもNZもどこにも見当たらず。
 JapanもNipponもどこにもなく、商品名の「おたご」とその脇の「スープ」以外は、日本語の文字は一切記されていない。要はタイの食品メーカーが生産しているのだ。和製英語ならぬタイ製和語なのか、おそらく意味を表わすネーミングではなく、漠然としたジャパニーズの雰囲気をかもし出すもの……もしそういう狙いなら、実によくできている。
 そしてそんなタイ製和語をとやかくいう資格は、日本に住むぼくらにはないように思える。われらがニッポンの国土交通省が推進するPRキャンペーンも、突きつめれば実体がなく、単にジャパニーズの雰囲気をかもし出すだけで終わっているのだから。

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 タイみやげの「おたご」を3箱スーツケースに忍ばせて、スワンナプーム国際空港から飛び立った。成田空港に到着、標識に従ってとぼとぼ入国審査。妻は手前の日本人の列に、ぼくはその他大勢といっしょに奥の外国人の列に加わった。
 そこで制服姿の職員の男性と女性が一人ずつ、??外国人用の入国記録カードを振り回しながら、問いただすみたいに大声で繰り返しいっていた。”How much cash do you have?” “What’s your occupation?” “How much cash do you have?” “What’s your occupation?” “Housewife? You a housewife?” “How much cash do you have?”などと日本語訛りで、列に沿ってみんなにしつこく何度も。
 口頭で答えて欲しいのではなく、その個人情報をカードに記入するよう、促すための問いだ。しかし、たとえそれを重々認識していても、「現金、いくら持ってるんだ? おまえ、職業はなんだ?」と見ず知らずの人間に詰問されるのは、決して気分のいいものではない。脅かされている感じがして、お客さんどころかまるで犯人扱いだ。つい「キサマこそ、ゲンナマいくら持ってるんだよ!」と言葉を返したくなってしまう。あのYOKOSO!にはミスプリがあって本当はYOKOSE!だったんじゃないかと、疑問を抱かざるを得ない。おっつけ一人ひとり、犯罪者よろしく指紋を採られ、写真も撮られた。

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 ともかく入国審査と税関を無事に通過、東京は板橋区のわが家へ帰って、あらためて「おたご」のパッケージとにらめっこしていると、今度は「むすご」がふっと浮かんできた。隣町の池袋4丁目に、むかしからやっている「むすご」という喫茶店があり、その看板もたしか平仮名の縦書きだった。なんとなく近すぎて、一度も入ったことがないが、自転車でよくその前を通り、深く考えずに「息子」がズーズー弁で濁って「むすご」かなと、適当に流していた。しかしズーズー弁だとすると、「す」も濁るだろうから、「むすご」には違うワケがひそんでいるはずだ。もしかして「おたご」の謎解きにもつながるかもしれないと、あくる日の午後、ひとりコーヒーを飲みに出かけた。
 落ち着いた和風の内装で、メニューに日本そばもあり、隣のテーブルのおばあさんはうまそうな白玉団子を食べていた。初老の夫婦が店を切り回していて、旦那さんがブレンドコーヒーを淹(い)れ、奥さんがそれを運んできたとき、ぼくは尋ねてみた。「あの、『むすご』って、どういう意味ですか?」
 「岐阜県の地名です。主人の郷里で、高山市にあります」
 かなり頻繁に受ける質問と見えて、奥さんはメニューの後ろに貼ってある地図を指さし、丁寧に説明してくれた。漢字で「無数河」と書いて「むすご」。けれど店名を漢字表記する場合は、旦那さんがふるさとへの思いをこめて「無数郷」と書くそうだ。メニューの日本そばは、もちろん飛騨高山の産。
 あの「おたご」を売り出している会社社長も、ニュージーランドのオタゴ出身だったりして……そう想像しながら「むすご」にうなずき、温かいコーヒーをすすっていた。

トゥクトゥク

トゥクトゥク

YOKOSO!JAPANの看板

YOKOSO!JAPANの看板
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おたごスープの外箱

おたごスープの外箱

箱の中身は3種類

箱の中身は3種類

喫茶むすごの看板

喫茶むすごの看板

喫茶むすごのマッチ

喫茶むすごのマッチ

第 6回 ようこそ「おたご」の国へ!