第15回 ねじれのけじめ

 生きていくうえで、「こじれる」ことはなるべく避けたいし、「いじける」ことも好ましくないし、「くじける」のも「ひねくれる」のも決していいと思わない。また無理やり「ねじこむ」ようなことも、極力やりたくない。もちろん「ねじれる」のも望ましくないのだ。

 国語辞典の『大辞泉』で「ねじれる」を引くと、「くねり曲がる。ねじられた状態になる」という定義につづき「素直でなくなる。ひねくれる」が出てくる。ちゃんと漢字で「ねじれ」を表わそうと思ったら、三つの選択肢が用意されている。「すねる」の漢字としても使われる「拗れ」と、「捻挫」でおなじみの「捻れ」と、それから「強引に回す」という意味で、「もじる」の漢字でもある「捩れ」だ。どれをとってみても、あまり喜ばしい印象ではなかろう。

 来日してこのかた、ぼくは日本語にどっぷりつかり、23年以上もずっとこの列島の言葉と向き合ってきたが、思えば「ねじれ」が輝く感じのポジティブ・イメージで使われた実例に、出会ったことがない気がする。「素敵なねじれですね」とか「私もねじれてみたい」とか「なんて楽しいねじれでしょう」なんぞ、例文としてはあり得ない。やはり「コードがねじれちゃっている」や「縄のねじれをもどす」や「ネクタイがねじれてますよ」が一般的だろう。それから「ねじれたものの言い方」だの「あの人は心がねじれている」だのも立派に成立する。

 頭の中の日本語を一生懸命洗い直し、「いいイメージのねじれは、あの練り菓子の『ねじれ棒』くらいかな……」と思った。でも、調べれば正式な呼び名は「きなこねじり」であり、「ねじれ」じゃなかった。ラン科の多年草の「ネジバナ」も可憐でいい雰囲気だけれど、「捩れ花」とはいわず「捩花」だ。

 すみずみまでネガティブに染まった「ねじれ」という単語が、いま日本のマスメディアの報道で、さも客観的な正式名称であるかのように、もっともらしく使われている。まるで国語辞典に昔から「衆参両院の多数派が異なること」が、当然「ねじれ」の定義として記載されているみたいに。無論、実際は正式名称ではなく、イメージ戦略の道具だ。

 しかも、前回の選挙の結果として生じた「衆参両院の多数派が異なること」を、2013年7月の参議院選挙の最大の争点として、メディアが盛んに取り上げているから、摩訶不思議な言論空間だ。なにしろ民主体制の国ならば、前回の選挙結果が問われるのは当たり前すぎるくらい当たり前だから。言わずもがなのことで、争点ではなく手続き上そうなるのであって、本当の争点を隠そうとしているとしか思えない。つまり、政策の中身が問われないまま、選挙をコマーシャルのパッケージだけで乗り切ろうとしている印象だ。

 2013年6月21日付の新聞に「参院選投開票まで1カ月 ねじれ解消か継続か」という見出しが堂々と出た。7月5日の新聞では、思考停止がさらにパワーアップして「参院選公示 『ねじれ』の行方 焦点」とでっかく載った。翌日はなんともっとでっかく「ねじれ解消の勢い」と打ち出された。現実とかけ離れたところで、偏った言葉が作り上げられ、狙いが明確なのに、それが「報道の客観性」の包装紙に包まれ、広く伝えられてしまう。

 実際、エネルギー政策も軍事政策も問われているし、憲法が廃棄処分されるかどうか、日本が「飛んで火に入るTPPの虫」になるかどうかも、選挙の大事な争点となるはずだ。ただ、もしかして今回の選挙でいちばん問われているのは、薄ぺラな「ねじれペテン」に、日本の有権者がひっかかるかどうかということかもしれない。

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