第一回 「月夜、スーパーで使う」

第一回 「月夜、スーパーで使う」

 日本語を母国語とする国に住んでいる我々だが、朝起きて窓をあけ
「さあ今日も日本語を使うぞ!」
 と決意しながら始まる一日は、外国からの留学生でもなければ、ふつうないだろう。
 そこをあえて「使う」ということにこだわってみることはできないか、というのが、この小文のもくろみである。
 さあ使うぞ、日本語を。

 先ほど閉店間際のスーパーに行ってきたのだが、そのような心がまえで買いものにのぞむと、いろいろ新鮮であることを発見した。
「どのレジで日本語を使ってやろうか・・・」などと考えながらレジの人を横目で見つつ、とりあえず売り場に向かう。深夜であり男性のレジ係もいるのだが「品定め」的な軽い興奮をともなう行為となった。
 そして、日本語を使うのは人間に対してだけではないのである。
 品物にも使えるのだ。
 もちろん声に出すのははばかられるので、心の中でであるが、品物どころか形のないものにさえ使えるのが、日本語の奥深さだ。いや、たぶん他の国の言葉もそうでしょうけど。
 小手調べとしてキュウリに使ってみることにした。明日の朝、パンのおかずにできないかと思い、目にとまったのである。
「・・・緑色ですね」
 野菜に敬語。
 さすがに初めてのことで緊張しているらしく、バカバカしさを感じながらもちょっと固くなっている。キュウリは何も答えてはくれなかったが、とりあえず買うことにした。

 話はそれるが「小手調べ」という日本語は実に日本的に感じる。
 というのは、剣道をやっていた自分には本来の「手先」という意味ではなく、防具の「小手」であるように思えるからだ。剣先から伝わる相手の小手の動きを見定め、その技量を察しよう、というようなニュアンスが感じられ、たいへんかっこよい。本来の意味とはちょっとちがうのかもしれないけれど。
 部活の強烈な思い出として、小手という防具はかなり臭いものなのだが(三十年前の話だ。今はいい匂いかもしれない)そのにおいが誰のものか嗅いで調べる、という意味じゃないことは確かだ。
 少年の私が小手に対して日本語を使うとしたら、それはあまりいい日本語ではなかったかもしれない。
「くっさいなあ、お前は」
 などと言い放ち、小手の心を傷つけてしまっていたことだろう。
今回の一枚(クリックすると大きく表示します)
 さてスーパーに戻るが、さすがにその後はあまりにバカバカしくて、商品に話しかけることはやめた。実際にやってみるとよくわかるが、すぐに飽きる。こんなにすぐに飽きていいのかとも思ったが、無理をしてもろくなことにはならない。
 買うものがきまったので、人間であるレジの人に、社会的な日本語を使ってみることにする。今ではずいぶん慣れてきたのでスムーズに使えるが、世の中にはまだ「どうも恥ずかしくて・・・」などという人もいるかもしれない日本語だ。
 それは「レジ袋いりません」という日本語である。今の私は三回に一回はまだ袋をもらう感じで、バリバリのエコの人から見れば半端だろうけれど、まあよく使っているほうだろう。慣れるまでは「気どっていると思われるのではないか」と思え、使いづらい日本語だった。こんなことぐらいで環境がよくなるとはあんまり思わないけれど、とりあえず大人としてやっとけ、という気分がある。
「この人のレジに!」とねらいをさだめたりはせず、てきとうに進行が早そうな列に並んで待つ間、頭の中で何パターンかを列挙してみる。
 「袋いりません」(だいたいこれにおちつきつつある)
 「テープでいいです」(これは品物が一個の時にけっこう使う)
 「そのままでいいです」(これも割と使う)
 「袋はけっこうです」(丁寧すぎると思うようになり、あまり使わない)
 「袋いいです」(いりませんのほうが伝わりやすい)
 一分ほど軽く検討したのち「袋いりません」を、無難に使った。今ではレジの人も手慣れたもので、ぼんやりしてつい袋をカゴに入れてしまう人もたまにいるけれど、昔のように
「ええっ? タダなのにどうして?」
 という気配を放つレジおばさんはほとんどいなくなった。
 若干のさびしさも感じるが、これも時代の流れというものか。
 帰りぎわ空が妙に明るいなと思ったら、雨上がりの空にきれいな満月が出ていた。
 おお、こいつに日本語を使ってみよう、と思った。
 こいつ呼ばわりをするのがはばかられるほど、ちょっとした神々しさもあり、そのためか、とりあえず出てくるのは願いごとである。
 「雨は、自分が仕事でこもっているときにだけ降りますように」などと勝手きわまりない日本語を使った。
 あとは「わお~~ん」ぐらいかなあ、と考えながら家路をたどった。わお~んだって、日本語といえば立派な日本語であろう。



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