第三回 「明日、談笑します」

第三回 「明日、談笑します」

 あれこれあって、先日婚姻届を出した私。
 占い師(知人の小1の娘)には
「あなたは3回結婚する」
 と占われたが、そんなことにならないように努力する日々だ。
 今回は、その新生活に関係する日本語を、何か使ってみようと思う。
 同業者との再婚を世間に公表したということで、書くものもこれから何かしら変わってゆくのかもしれず、その第一歩である。
 関係各位には失礼な表現のオンパレードになるかもしれないが、これもまたこんな人間とかかわりを持ってしまったおのれの宿命と思って、ごかんべん願います。
 ふと使ってしまったが、オンパレードという言葉にはなつかしい響きがある。
 大行進、勢ぞろいと訳せばいいのだろうか。
 なつかしく感じるけれど、死語になっていないのは、若い人たちがディズニーランドなどで「パレード=ステキで美しいもの」と刷りこまれ、使っているからかもしれない。
今回の一枚(クリックすると大きく表示します) 幼いころに胸をときめかせたものは古くならない。そういう法則は確実にあるだろうし、それを利用して子供たちにあまり感心しないものを「餌づけ」しようという業者も存在するだろう。
 まあ、人様のことは言えず、私も
「小学校低学年におれのマンガをインプリンティングしてくれるわ!!」
 という野望に燃え、雑誌「小学二年生」に『かわうそくん』というマンガを描かせてもらったことがあったが、二回ほどで打ち切られた。

 話は変わって、明日、妻の妹たちと初めて会食することになっている。
 明日というのは2007年10月14日のことだが、結婚式のようなものをまったくしていないため、遅い初顔合わせとなった。下の妹さんはずいぶん昔に一度会ったことがあるが、上の妹さん一家とは初対面なのだ。
 こんなところで書かれているとも知らずに明日会いにきてくれるわけであり、申しわけない気持ちでいっぱいだが、そもそも妻・伊藤理佐が、自分や家族や、まわりの人間のネタを切り売りする稼業のエキスパートであり、私もまた彼女に切り売られる哀しい身の上となった以上、このぐらいのことには耐えてもらうしかあるまい。
 えーと、何を書き進めようとしていたのだったか。そうだ。
談笑」という言葉がある。
 結果として楽しく和んだ集まりになった場合に、そういう書き方をするのだろうが、未来に対して使ってみるとどうか。
「明日、妻の姉妹と談笑する予定である」
 おそらく確実に談笑するだろうけれど、そう言いきるとちょっとおもしろいものになる。
「明日の談笑だけど、何を着ていこうか」
「来週末はちょっと友達と談笑の予定が入っていて」
 等々、かるく遊べる。
「正月の談笑をどこで、どのようにするか」
 も、そろそろ考え始めなければならない。
 談笑とよく似た言葉には「歓談」もあるわけだが、パーティなどでの
「それではしばらくご歓談ください」
 に表れているとおり、メインスケジュールに対しての休み時間的な、一段階低く見られているようなニュアンスがあり、気に入らない。
 社長のつまらないスピーチより歓談は格下かよ、という不満がある。
 久しぶりに会う友人知人との歓談のほうが、やかましいビンゴなどよりよっぽど大事だと思う私にとって、歓談が置かれているポジションの低さが悔しくてならないのだ。
 それにくらべれば談笑は、談笑としての確固たる地位を守りぬいている。
 それがお固いビジネス会話であれ、談笑の要素が大切な潤滑油になっていることはまちがいない。
 談笑抜きの話し合い、それはかなり深刻で楽しくなく、その場に身を置きたくない種類のものだろう。そういうのは必要最低限にしておいて、できるだけ談笑を交えたおだやかな話し合いで物事を進めようよ、というのが、人間の生き方のひとつの目標であろう。
 かわいそうな地位に甘んじている歓談のためにも、談笑はがんばらなければならない。
 右に左に話はぶれつつ、さて、緊張してきた。
 友人たちとの気軽な談笑と、明日の談笑はさすがに意味がちがう。いつもの談笑が日常的なトレーニングだとすれば、明日の談笑は大会本番だろう。
 もともと私は知らない人との談笑がかなり苦手だったのだが、酒の力や、変な言い方だが「吉田戦車の力」を借りて、少しずつ談笑の錬度を高めてきた。
 明日はもちろん伊藤の力も借りることができるし、ネコ2匹の力もおおいに当てにしている。
 幸いにも未就学児の伊藤の甥っ子が来るので、談笑がとぎれたら、彼を見てほほえんでいればいい。動物と子供はまったくすばらしい。
 そういう様々な、新たなる力を借りて、明日はおのれの談笑力のすべてをいかんなく発揮することを、この晴れ渡った秋空に誓います。



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