吉田戦車「日本語を使う日々」

第二十九回 「あなた、私に隠してることはないですか?」

第二十九回 「あなた、私に隠してることはないですか?」

 2010年1月に、無事女子が生まれた。
 そして、あまりいいタイミングとは思えなかったが、4月~5月にかけて、大々的な引っ越しをした。
 前年秋に「これは他人に渡したくない!」という中古物件に出会い、契約したのである。妻・伊藤理佐とともに有り金をはたきだし、初めて取り引きする地方銀行で、高い利息でがっちりローンを組んだ。メインバンクにしている大手銀行は貸してくれなかったのである。
 伊藤は、臨月~出産~子育て(漫画はほとんど休業)の中で、リフォームのプランを練り、業者と打ち合わせをし、引っ越しに臨んだ。
 4月終わりに伊藤の仕事場兼、我々の自宅を新居に引っ越し。
 5月に入ってから私の事務所をたたみ、新居に統合。
 いわばダブル引っ越しであり、乳飲み子を抱えてしたい行為ではなかったが、しょうがなかった。

 前の自宅は、伊藤が借りていたマンションであり、私はそこに転がりこんだ形だった。私の部屋も、本棚も、机もイスもなかった。週に2、3日は自分の事務所に寝泊まりしていたので[通い婚]的な感じもあり、わが家としてゆったり落ち着いた気持ちになることは、最後までなかった。
 子供が生まれてからは事務所に泊まることはなく、まじめに通勤していたのだが、それもまたしんどかった。
 仕事の効率は落ちた。たとえばだいたい12時間強で3ページの漫画を仕上げることができるのだが、9時~5時の就業時間だと、それを二日に分けなければならなくなった。
 なので、たいへん面倒な思いをしたが、引っ越しは待ち望んでいたことでもあった。赤ん坊の世話の手伝いをしつつ、仕事もある程度効率よく進めることができるようになった。

 今回の一枚(クリックすると大きく表示します)引っ越してみて、完全にひとつ屋根の下に住むようになってちょっと気になったのが、妻が私を呼ぶ呼称である。
 以前からの[センセー]あるいは[ヨシダさん]が、なんだか妙に感じられるのであった。いやなわけではないが、マンションではぜんぜんおかしいと思わなかったその呼称が、古い和風住宅の中では妙に浮いているというか…。
 今どき和室が4部屋もある家に何が似合うかといえば、ごくノーマルに[お父さん]だろう。『サザエさん』の波平のイメージだ。波平が妻のフネから[イソノさん][課長]などと呼ばれた日にゃあ家族崩壊だ。
 やがて私は、少なくとも子供の前では[お父さん]になるのだろう。そのことにはなんだか落ち着く思いがあり「そうか、おれは波平になりたかったのか」と気づいた。
 そして、夫婦間の呼び方に思いをめぐらせているうちに[あなた]のことが気になりはじめた。

 あなた。
 妻が夫を呼ぶ[あなた]は、私にとっては映画やテレビドラマや漫画の中での呼び方である。岩手の母が父をそう呼ぶのを耳にしたことはまったくないので(お父さん、と呼ぶ)なんとなく「都市部の中流以上の奥様」用語なんだろうなあ、と考えていた。
 自分の漫画でも、ごく普通に夫を[あなた]と呼ばせてきた。それは[夫婦という記号]であるため、漫画の中ではむしろ使いやすい呼称であった。
 が、実際伊藤に[あなた]と呼ばれることを想像すると、
「な、何も隠し事なんかしてないよ」
 などという緊張感がただよい、かなり居心地が悪い。
 Web上で[あなた]についての話題を書き、多くの方の意見を拝見したが、だいたいみなさん「昔の呼び方じゃないの?」という認識を持っているようであった。中には「親が普通に使っていたので、おかしいとは思いません」という意見もあったが、その人が受け継ぐとしても、もはや希少種だろうと思う。

 歌舞伎や時代劇を思い返してみると[お前さん、お前様][あんた、あなた]などなど、そうか、昔は夫婦になったら妻は夫を名前では呼ばないものだったのかもしれない、と思い至った。
 場所で呼ぶ。
 [お前]は[前にいる人]ということだろう。
 [あなた]もまた、今ではほとんど使われなくなった[むこうのほう]という意味を持つ。
「山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう…」という詩があるが、山にいる誰かではなくて、山の向こう、ということである。
 [あなた]より近場を指すのが[こなた]で、これも二人称だったり一人称だったり便利に使われていたようだ。
 古語辞典によれば、「目の前に見えぬあなたのことは、おぼつかなくこそ…」(源氏物語)のように[将来、未来]を意味する言葉としても使われていたようだ。現在の向こうか、なるほどなあ、と思う。
 そういえば[奥さん、奥様、奥方]という、その家の主婦をいう呼称も、場所である。時代小説で、夫が妻を[奥]と呼ぶのを読んだことがあり、奥さんの呼び捨てとして新鮮に感じた。
 他にも[御前様][御館様][殿様]などなど、場所を呼称とする例は少なくないようだ。[みかど]も[帝]という字はあてるが、元は[御門]であり、皇居の門のことらしい。あの御門の奥に住まう高貴なお方、というような呼び方ということらしく、勉強になるなあ。
 そのような歴史の流れの上に[あなた]はあり、日本の伝統としてみんな照れずに使えばいいわけだが、やはり消えゆくさだめなのだろう。

第二十九回 「あなた、私に隠してることはないですか?」