第110回 練馬大根の肥料は?

入社式を終えたばかりの新入社員と見受けられる人たちが街中に出る季節でもある。新入社員の気分を社風になじませようと発するオヤジギャグは、最近の若い人たちは苦手であろう。
江戸時代もそんなダジャレはさかんだった。「ああ、腹がへりま大根」(「練馬大根」から)、「だまりの天神」(黙ること。寺子屋で学問ができるようにと祀ってあった「鉛の天神」から)、「何か用か、九日十日」(七日八日〈なのかようか〉から)など枚挙にいとまがない。
なかでもよく使われたのが「へりま大根」であったろう。「練馬大根」は、江戸庶民には親しみがあった。青首大根のように首が青くなく、首から下がやや太めで長い大根である。むかし、女性のスカートから太い足が出ていると「大根足」と失礼なことを言ったものだと思うが、言い得て妙であった。
江戸の地が開発された17世紀初頭から、練馬は近郊農業地帯として発展し、やがて関東平野の内陸の近郊農業地帯の代名詞のようになり、そこで栽培された大根は練馬の名産となった。今では、練馬(東京都練馬区)は一大住宅地に変貌して農地は減ったが、「練馬大根」と称する大根は作られつづけている。
ちなみに、江戸時代、大根は煮物だけでなく、おろしにして蕎麦(そば)などの添え味、または消化を助けるために用いられたようで、今日考えるよりももっと広範囲に使われていた。少し辛みのある練馬大根は、ちょっと濃い味の江戸の食べ物に合ったのかもしれない。
江戸の土地の名にちなんだ野菜は結構多い。「小松菜」もそうであり、江戸時代風に言えば、武蔵国葛飾郡(むさしのくにかつしかごおり)小松川村(こまつがわむら。現在の東京都江戸川区北西部)産の春の野菜ということになる。正月の雑煮用などとして江戸へ出荷される野菜としてなじみ深いのは、現在も変わらない。
ところで、これら野菜の栽培に必要なのは肥料であるが、今のような化学肥料がない江戸時代は「人糞」が主流であった。練馬大根も小松菜も、江戸市中で一番人口密度が高かった地域である下町の住民の糞尿が、葛西舟(かさいぶね)と呼ばれる「おかわ舟」で小松川村などへ運ばれて肥料となった。
こんな余談を言うと蒲焼きが食ベられなくなると苦情が出そうだが、今は違うとくれぐれも断っておく。隅田川を上って武州(ぶしゅう。現在の埼玉県)へ葛西舟で運ばれやってきた糞尿は別の舟に移されて、その舟の糞尿の中にドジョウやウナギを放り込み、糞尿の養分で、ドジョウやウナギの生育を早め大きくする方法が江戸時代には採られていたという。
ところで、そういった人間の糞尿が唯一最大の肥料だったかというと、砂糖の原料の甘蔗(かんしゃ。かんしょ)には意外に効果がなかったようだ。鰯(いわし)の魚肥(干鰯=ほしか)が甘蔗の栽培に適し生産量を上げるのに役だったという。練馬大根なども、連作の弊害を避けるために、人間の糞尿だけでなく干鰯も使わなければならなかったようだ。天明年間(1781~88)には、それまでの乱獲がたたり干鰯は品不足になり、肥料代が高騰し農民は困った。
それを見越したわけではないが、時代劇や時代小説では、もっぱら悪役になる田沼意次(たぬまおきつぐ)が北海道の開拓に着手して、鰯の代わりにニシンを代用肥料として活用させた。ニシンの魚卵は数の子だが、これは江戸時代から既に珍品として贈答用に使われたりしていた。
練馬大根も、その肥料の歴史をひもといてゆくと、海の魚肥という有機質肥料との融合もあって、太く大きな大根となったわけである。

「青物売」が大根を売っているところ。『江戸職人歌合』(文化5年〈1808〉刊)より。

田沼意次…1719~88。江戸中期の幕政家。第十代将軍家治(いえはる)の側用人(そばようにん)・老中(ろうじゅう)として政治の実権を握った。その明和4年(1767)から天明6年(1786)までを「田沼時代」と言い、積極的な膨張経済政策がすすめられた、いわゆるバブル時代であった。

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