第115回 「てこずる」と「気の毒」

  参議院議員選挙は与野党の争点がかみ合わないようで、片や憲法問題、片や経済のアベノミクスをこのまま推進するということだが、高齢化社会を迎えた日本経済が今後どうなるかに関心は高く、争点の一つともなっている。
 高齢化社会の経済問題が複雑であるから難しいというのが本当のところだろう。日本経済の失速とデフレからの脱却、景気回復には政府も日本銀行も「てこずる」だけ、実効のあがる経済政策の舵取りはなかなか難しく、誰にも予測できないようである。
 「てこずる」という語は日本語としては新しい言葉で、江戸時代に生まれたものである。大田南畝(おおたなんぽ)は随筆『半日閑話(はんにちかんわ)』で、安永年間(1772~80)に流行した語だと、当時の童謡などを紹介しながら、次のように述べている。

 

  「てこずる」 窮困、コマル事をテコズルといふ語流行す。

 

 山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)には、「二朱(しゅ)と三朱の工面(くめん)にさへ、てこずる」(天明5年〈1785〉刊『侠中悪言鮫骨(きゃんちゅうあくたいきょうこつ)』)とあるから、金に困るという意味がはじまりだったのかもしれない。この当時だと南鐐(なんりょう)二朱銀という長方形の銀貨一枚のことを二朱とも二朱判とも言い、二朱とは一両の8分の1の金額だった。現代の価値として比較するなら2万円より少し少ないくらいのカネの額で、その工面に「てこずる(困る)」ということになる。
 もともと「てこずる」とは、重い物を移動させる道具の挺子(てこ。梃子とも)でも、ずらすのに往生することから、挺子でズルズル動かす様子をして「てこずる」という流行語が生まれたものだろう。事態が動きにくいことから、困ってしまうこと全般を意味する語へと発展したわけで、今はデフレ脱却に「てこずる」というわけである。
 図版は、閨房(けいぼう)の中で客が拗(す)ねて、遊女が機嫌を直そうと、てこずり困っている様子である。
 ところで、困ると言えば、江戸時代では「気の毒」という言葉がよく使われていた。
 自分の心や気分にとって毒になることから、困惑すること、気がもめること、イヤになったりすることなど、広く不快な感情をいう言葉だったのが、主格が逆転するようになり、他人の不幸や苦痛に対し、同情して心を痛めることの意味として使われだした。現在では、ほとんど後者の意味として使われる。「あんなことになって、お気の毒に」というふうに、他人に対する同情の気持をあらわす語となった。
 江戸時代初期の「気の毒」は困惑する、困るの意味だけ、江戸の半ば頃になると両用の意味として使われだし、それが1800年頃の小説類を読むと、ほとんど他人に対する同情の意味として使われる。「気の毒」ばかりでない。たとえば「はしたない」なども本来は「端(はした)」がなく真ん中で、どっちつかずというのが原意なのだが、江戸の後期から見苦しい、みっともないという現代風の意味も加わる。
 その「気の毒」の「気」は生命、精神、心の動きのことで、自然現象における「気」と関係すると考えられ、自然現象の様子、気配、景色、眺望などをいう「景気」の「気」と通底する概念である。どうも「景気」と「てこずる」は、ずっと縁があって離れられないようである。

第115回図版 

黄表紙『無題記(むだいき)』(無益委記とも)(天明元年〈1781〉刊)。聖徳太子がこの世の末を予想して書きのこしたとされる「未来記」のもじりで、未来の世の中はどうなるかと想像し、あれこれと見立てた作品。恋川春町作・画。

大田南畝…1749~1823。江戸後期の戯作者。幕臣。別号・蜀山人(しょくさんじん)、四方赤良(よものあから)。天明狂歌の代表的作者。

山東京伝…1761~1816。江戸後期の戯作者・浮世絵師。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)の第一人者。。

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