第118回 大家と言えば親も同然

 落語に出てくる大家(おおや)は、「大家と言えば親も同然、店子(たなこ)と言えば子も同然」というのが決まりゼリフでもある。「長屋の花見」の貧乏大家は店子連中を連れて花見に出かけ番茶を煮だして水で割ったものを酒だと言って店子ががっかりさせられるやら、美人の妹が大名の妾(めかけ)になった八五郎になにかと世話を焼く「妾馬(めかうま)」の大家も人がいい。

 それに対し「大工調べ」に出てくる大家は、店賃の「一両二分(ぶ)八百文(もん)」のかたに与太郎の大工道具を質に預かり、あとで与太郎が一両二分持っていくと八百文足りないと追い返し、大工の棟梁(とうりょう)とひと騒動を起こす因業(いんごう)大家といったところであろうか。

 大家といっても長屋を所有しているオーナー大家は珍しく、長屋を所有しているオーナーから委託された管理人といったケースが圧倒的におおかった。

 落語などに出てくる大家は長屋といっても裏長屋の大家である。俗に「九尺(しゃく)二間(けん)」、つまり3坪(現在の6畳間)といわれるのが、裏長屋でも最下層に属する長屋で、『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』の主人公弥次さん・喜多さんが住んでいたような長屋である(図版参照)。

 よく「江戸の長屋の家賃はどのくらいでしたか」と訊(き)かれるが、答えようがない。時代や場所によって家賃はちがい、たとえば江戸の繁華街にあった長屋では店を構えて商売もしていたから高かった。

 幕末近い文政年間(1818~29)の下町の住宅街だと、間口2間半(約4・5メートル)×奥行き5間半(約10メートル)の二階建てだと1ケ月3分(1両の3/4)はくだらない。約7万円以上というところであろうか。家賃は時代と場所によって、ひどく違いがあるのである。ちなみに当時、大工職人の日当が銀5匁(もんめ)、月に30日フル稼働して銀150匁(2.5両)、もし、そんな立派な長屋住まいをしていると、給金の1/3は家賃に消えてしまう勘定になる。

 そんなわけで、すこし腕のよい職人だと裏長屋でなく、「九尺三間半」の銀15匁くらいの長屋住まいということになり、月に20日働いて家賃は給金の15%程度である。

 一方、管理人の大家がもらう管理費はケースバイケースだが通常は1割だった。20軒長屋として、管理費収入は1.5匁×20軒=30匁(1両の1/2)といったところであるが、とんでもない副収入があった。

 長屋の共同トイレの糞尿は貴重な金肥(きんぴ。お金になる肥料)であり、これが大家の副収入であった。20軒長屋だと年間約5両ほどだったようだから、月に平均して25匁の副収入ということになる。長屋の一隅の一軒を無料で借りられ、副収入が月に25匁である。わずかであったとはいえ、町政運営にあてる町入用(ちょうにゅうよう。町費)なども大家がまとめて払い、店子の不始末は共同責任者になるわけだから、こうして大家の仕事を見てみると、〝大家もつらいよ〟といったところであろう。

第118回図版

 

弥次さん・喜多さんの裏長屋。右では、弥次さん・喜多さんが旅に出ることになって女ともめているし、左上では妊婦に子どもが生まれそう。外では井戸水を汲んだり洗物をしたりしながら、女たちがおしゃべりしている。『道中膝栗毛』発端(文化11年〈1814〉刊)より。

 
 
 
 
 
 
 
 

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