第12回 寺子屋入り

 春は卒業・入学のシーズンである。最近では、国際化という事情から、秋に入学式をしようという大学があらわれている。ひと騒動になるかもしれない。
 江戸時代、初午(はつうま)、すなわち旧暦2月(今の3月初旬)の初めての午(うま)の日は、学齢期(数え歳7、8歳)に達した子どもが「寺子屋入り」をする日であった。親に伴われて、先生であるお師匠さんに挨拶に行くのである。寺子屋に入ることを、山登りになぞらえて「初山踏(ういやまぶみ)」とも「初登山(しょとうざん)」とも言った。この伝統が明治の学制に引き継がれ、それ以降、学校の入学式は春の行事になったというわけなのである。
 さて、寺子屋は、あくまでも民間の私的な教育機関である私塾だったわけだから、地域によって、形態や月謝などもさまざまだった。江戸にかぎったことでいえば、浪人や武家たちがおもに師匠となり、月謝は金納だったようである。
 武士が多く住む武家屋敷街のなかにあった寺子屋は、習う寺子たちも、とうぜん武士の子弟が多く、読み、書き、算盤(そろばん)のなかでは、論語などの素読(そどく)に重点がおかれていた。町人街の寺子屋なら、読み・書きのほかに算盤を教えることも熱心だったし、女の子には、師匠の奥さんやほかの女性の手助けを借りながら、裁縫やお花の稽古もつけていた。
 だいたい寺子たちは、朝7~8時ごろに寺子屋に集まって勉強をはじめ、午後2~3時ごろに帰宅していた。お師匠さんの自宅を教室にしていたので、勉強のはじまりと終わりには、部屋の掃除をするのも躾(しつけ)の一環としておこなわれていた。年少の子どもは、年長(12、3歳)の子どもを模範として寺子屋生活をしていた。
 朝から午後までずっと勉強時間だったから、寺子屋の昼食はどうしたのだろうか、という疑問があるだろう。町家街にあった寺子屋では、子どもたちは昼食をとるため一時帰宅していたようだ。雨の日などは、弁当を持参していた。弁当のおかずに好物をねだる子どもの姿が、式亭三馬(しきていさんば)の滑稽本(こっけいぼん)『浮世風呂(うきよぶろ)』に描かれている。
 寺子屋の習字の手本などに使われた教科書を「往来物(おうらいもの)」と呼ぶ。これをいちばん多く書いたのは十返舎一九(じっぺんしゃいっく)なのである。あの弥次さん喜多さんの滑稽本『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を書いた、戯作者(げさくしゃ)の一九である。意外と思われるむきがあるかも知れないが、一九は駿府(すんぷ、今の静岡市)の奉行所の六十人同心(どうしん)を父にもち、一九自身も江戸と大坂で町奉行勤めをした常識人でもあった。一九には、寺子屋生活をする子どもを描いた黄表紙『初登山手習帖(しょとうざんてならいじょう)』(寛政8年〈1796〉刊)もある。

寺子屋で手習いをする寺子たち。黄表紙『多羅福長寿伝(たらふくちょうじゅでん)』(享和2年〈1802〉刊)から。師匠が読み上げると、子どもたちがいっせいに書き出している。女の子には師匠の奥さんが教えている。(国立国会図書館蔵)

式亭三馬…1776~1822。江戸後期の戯作者。江戸の社交場・銭湯や髪結床(かみゆいどこ)での人々の会話や様子をおもしろく活写した『浮世風呂』や『浮世床』が有名。

十返舎一九…1765~1831。江戸後期の戯作者。駿府生まれ。江戸と大坂の町奉行所勤めをするがやめて大坂で浄瑠璃作者となり、江戸に出て戯作者として成功。東海道を弥次さん喜多さんが旅してナンセンスな笑いをくりひろげる『東海道中膝栗毛』は、当時の大ベストセラーとなる。さまざまなジャンルにわたり健筆多作で知られる。

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