第15回 端午の節句

 5月5日のことを、近頃では、「端午(たんご)の節句」という言い方はあまりせず、もっぱら「子どもの日」とか、ゴールデンウイークの「5日(いつか)の休日」と呼ぶようになった。
 そもそも端午の節句とは、中国の厄払(やくはら)いの行事が日本に渡来し、大化の改新(645)以後に5月5日の行事に定められ、軒先に菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を掛けて邪気をはらう風習になったというから、歴史のある年中行事である。江戸時代になり宮中行事としては簡素化されたが、いっぱん庶民のあいだで盛んになったようである。
 江戸時代になって半世紀近くの慶安元年(1648)、この節句に飾る甲(かぶと)の豪華な拵(こしら)えを禁止する町触(まちぶ)れが出された。金糸・銀糸や梨子地(なしじ。うるし塗りに金銀の粉末を蒔〈ま〉く蒔絵)にしてはならないとの触れである。これより、このころ立派な甲人形をあつらえる家もあったことがうかがわれる。
 この町触れには、甲を飾ると同時に、軒先に飾る鍾馗(しょうき)や武者、鯉(こい)などを描いた小旗(今のような吹き流しではない)は、絹製ではなく布か木綿にするようにとある。また、豪華でない甲人形なら2、3体を飾ってもよろしいと書かれている。
 昭和30年代くらいまでの生まれの世代には、端午の節句といえば、柏餅(かしわもち)や粽(ちまき)を食べ、童謡「せいくらべ」や「こいのぼり」を歌って、夜は菖蒲湯に入浴した記憶もあるだろう。そして、青空を壮観に泳ぐ「鯉のぼり」を思い出すむきもおおかろう。
 「鯉のぼり」は武家の風習といわれるが、江戸時代中期までの資料には、その絵はなかなか見つからない。幕末から明治になると、現代のような吹き流しの鯉のぼりが流行した。広重(ひろしげ)の「名所江戸百景」には空に泳ぐ大きな鯉のぼりが描かれており、明治の文献には、三越デパートの屋上で飾られたなどとと見える。吹流しスタイルの鯉のぼりは、案外新しい。
 逆に、むかし端午の節句に行われていたが、今ではすっかりすたってしまったことがある。
 この日、若者たちが「梵天(ぼんてん)」という縁起物を担いで街中を練り歩いた風習である。梵天とは、細長い紙片や布でつくった幣束(へいそく)を棒の先へ刺したもので、若者たちは川で水垢離(みずごり)をしてから、これを担いで歩いて回った。そして、厄払いのお呪(まじな)いにこの幣束を売り、梵天の棒は川べりなどに棄てた。寛政元年(1789)4月には、大きな梵天を大勢で担いで練り歩くことを自粛するようにとの町触れが出ている。梵天の一行から縁起物の幣束を求めた人もおおかったのだろう。
 この風習は、明治になっても東京では行われていたが、お祭りではないところから自然消滅してしまったようだ。

天保9年(1838)刊の『東都歳事記(とうとさいじき)』に描かれた、江戸の端午の節句の風景。道には、鍾馗様ののぼり、家紋を染めた旗、鯉のぼりや吹流しがはためき、店には、甲をはじめ武者人形が並べられている。中央手前の笠を被った人物が担いでいるのが「梵天」。魚の形をした幣束がたくさん刺さっている。ちまきを肩にのせた人が続く。武士の一行の前で、使いの子どもが柏餅を落としてしまった。後ろの子どもたちは、ちゃんばらごっこに興じている。

「名所江戸百景」…安政3年(1856)から同5年にかけて出版された、歌川広重(1797~1858)最晩年の風景版画シリーズ。江戸名所を119枚の絵で紹介している。

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