第16回 初鰹

 初鰹(はつがつお)と聞けば、山口素堂(そどう)の句「目には青葉山時鳥(やまほととぎす)初鰹」(延宝6年〈1678〉)を思い出す人もおおかろう。甲斐国(かいのくに、山梨県)から江戸へ出てきて松尾芭蕉(ばしょう)などと親交を結んだ俳人・素堂が、江戸人たちが初鰹を珍重賞味する初夏の風物を詠(よ)んだものである。
 「初物(はつもの)を食えば七十五日長生きする」という俗説は、江戸ばかりでなく大坂でも言われていたようだが、とくに江戸では初鰹を珍重するところから、初物といえば初鰹をさしていたと言ってもいいだろう。江戸人は、「褞袍(どてら)質においても初鰹」と意気がっていた。
 鎌倉沖や小田原沖で獲れた初鰹は、急ぎ江戸へ運ばれて高価で売られた。素堂の句が生まれてからほぼ1世紀後にあたる天明年間(1781~88)、石町(こくちょう、東京都中央区)のさる金持ちは、初鰹1本を2両2分(現在の価格にすると約18万円前後)で買い求めたと、山東京山(さんとうきょうざん)は随筆『蛛(くも)の糸巻(いとまき)』で伝えている。
 現代のグルメでは、鰹や鮪(まぐろ)などの中落ち(骨についた身)は脂がのって美味だと珍重するが、江戸っ子は魚の中落ちなどは食べなかった。京山の兄・山東京伝(きょうでん)は、洒落本(しゃれぼん)『総籬(そうまがき)』(天明7年〈1787〉刊)で、「金の鯱(しゃちほこ)をにらみ神田上水(じょうすい)で産湯(うぶゆ)をつかった江戸っ子は、隅田川で獲れる白魚の中落ちでさえ食べないと自慢している」と書いている。
 そんな江戸に対して、大坂は実利をとる風土であったから、初鰹もそうだが、初物についてそんなにこだわっていなかったようである。
 井原西鶴(さいかく)の『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』(元禄元年〈1688〉刊、巻二ノ一「世界の借屋大将」)には、1つで2文(もん)、2つで3文と、初茄子(はつなすび)を売りに来たとある。2つで3文のほうが得だと言って皆が買うが、そこの主人は1つで2文のほうを買った。その理由は、最盛期になれば茄子は大きくなり、1つ1文で買えるようになる。2つで3文でも、最盛期には大きなものになるから得だというわけである。こんな始末屋の意識が大坂人にはあるから、江戸人ほど初物にこだわらない。
 ところで、京山が、初鰹1本を2両2分で買った人がいたという話を父親にすると、鰹好きの父親は、秋の最盛期になれば大ぶりなものが2百文(当時の相場でいえば、2両2分の75分の1相当=約2300円くらい)なのにと嘆息したという。
 幕末には金持ちたちはすでに零落し、初鰹を2百文で買う者はいない時節になったと、京山は書いている。明治維新を前に、贅沢を言えない不景気となって、江戸っ子気質が消えかけていたと言えよう。

右の鰹売りから初鰹を買おうとしている亭主は、高値だと言いながらも七十五日長生きするために、女房の袷(あわせ)の着物を質に入れるという。女房の手には質屋の通い帳が。その手前で命の棒をのばそうと懸命になっているのは、隣家の亭主。女房は火のし(今のアイロン)で命のしわをのばそうとしている。(山東京伝『御誂染長寿小紋(おんあつらえぞめちょうじゅこもん)』享和2年〈1802〉刊、東京都立中央図書館加賀文庫蔵)

山口素堂…1642~1716。江戸前期の俳人。江戸に出て漢学を修め、一時、京にのぼり和歌、書、俳諧を学ぶ。晩年は葛飾に住んだ。

山東京山…1769~1858。江戸後期の戯作者(げさくしゃ)。山東京伝の弟。篆刻(てんこく)をなりわいとした。読本(よみほん)や合巻(ごうかん)も書いた。

山東京伝…1761~1816。江戸後期の戯作者、浮世絵師。黄表紙(きびょうし)、洒落本の第一人者として活躍するが、寛政の改革で筆禍ののちは、読本や考証随筆に転じた。

洒落本…遊里での男女の会話をたくみに描いた、江戸戯作の代表的な短編小説。山東京伝の『総籬』は、遊里をめぐる最新の話題や流行を、実在の人物をモデルにして写実的に描いたもの。

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