第23回 八朔と吉原

 「八朔(はっさく)」とは8月1日のことをいう。江戸時代は旧暦(太陰暦)であったから、現在の新暦(太陽暦)でいうと8月30日あたり、盛夏すぎの暑さも少し和らいだ、ちょうど今頃の気候ということだったろう。
 江戸時代、この日には、武士たちが江戸城に登城して将軍にお目見えする「八朔」の儀式がとり行われた。旗本(はたもと)・御家人(ごけにん)・大名たちが、白帷子(しろかたびら)に長袴(ながばかま)をつけて将軍に祝辞を申し述べた。
 この儀式は、天正18年(1590)8月1日(新暦8月30日)、徳川家康が江戸入りしたことからはじまり、江戸城の年中行事となったわけである。
 「八朔」はもともと、鎌倉時代頃から行われた農民が収穫の無事を願う儀式に由来するようである。早稲(わせ)の実り具合を見て豊作を祈願する儀式や、早稲の実を入れた盃(さかずき)に酒を注ぎ、農事の共同作業の成就を祈願する早稲の「田(た)の実(み、「む」とも)」の儀式である。これらは、今日も全国各地で見られる。鎌倉武士たちは、「田の実」を語呂合わせで「頼む」とし、主従関係において「頼み」「信頼」を築く日を八朔と定めて儀式化していったのである。
 さて、江戸庶民にとって八朔といえば、吉原の年中行事がピンときた。
 吉原の遊女は、図版のように、八朔には白い小袖(こそで。もとは下着だったが、江戸時代になると一般的な着物となる)を着てお客を迎えた。残暑のなか、客は白い雪を見るような涼しげな景観を楽しんだのである。
 江戸のはじめ頃、吉原の遊女たちは八朔に白い袷(あわせ。裏地付きの着物。旧暦4月1日~5月4日、9月1日~8日まで着るならわしだったが、現在では秋・冬から春まで着る)を着るのが慣例化していたが、ある年、ひどく寒い八朔だったので、夕霧(ゆうぎり)という遊女が白い袷ではなく、白い小袖を着たことより、以後、白い小袖を着ることが慣例化したと、吉原の起源記録書『洞房語園(どうぼうごえん)』には記されている。
 一方、図版に示した『青楼絵本年中行事(せいろうえほんねんじゅうぎょうじ)』の編著者は、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)であるが、その本文には、元禄年間(1688~1703)に、遊女高橋がひどい高熱の病気をおして馴染(なじ)みの客を迎えるのに白無垢(しろむく。上着・下着ともに白の着物)の小袖で出たことから、その姿のあでやかさに皆が感賞し、以来、吉原の遊女はこぞって白無垢を着るようになったと、『古今吉原大全(ここんよしわらたいぜん)』から引用している。
 一九の記す伝説のほうが怪しいのだが、事実はどうであれ、妍(けん)を競って白無垢の世界となる吉原の八朔を楽しみに客は吉原へ足を運んだ。

八朔の日の吉原の遊女屋の風景。花魁(おいらん)、新造(しんぞう)、禿(かむろ)、茶屋の女房が集まっている。花魁と禿は白い小袖を着ている。元禄の頃には白無垢を着たようだが、この絵が描かれた文化頃には、その名残をとどめた着物姿となっている。(『青楼絵本年中行事』文化元年〈1804〉)刊より)

『洞房語園』…著者は、江戸の元吉原に遊廓を初めて開いた庄司甚右衛門(しょうじじんえもん)の末裔(まつえい)の又左衛門勝富(またざえもんかつとみ)。吉原の傾城町免許(元和3年〈1617〉)以来、享保年間(1716~35)までの吉原の歴史・制度・風俗・流行などや、遊女や大尽(だいじん)客のエピソードを書き記したもの。元文3年(1738)の刊行本をはじめ、増補されたりした異本も多く存在する。

『青楼絵本年中行事』…十返舎一九編著、喜多川歌麿画。文化元年〈1804〉刊。青楼は吉原のこと。吉原の年中行事を描いた色刷りの絵本。

十返舎一九…1765~1831.江戸後期の戯作者。『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』など、ベストセラーを次々刊行した。

『古今吉原大全』…洒落本(しゃれぼん)。明和5年(1768)刊。酔郷散人(沢田東江か)著。吉原の起立や風俗、遊興論などが綴られ、以後の洒落本作者たちの吉原バイブルともなる。『吉原大全』とも。

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