第25回 小判の話

 箸休めに江戸のお金の話を書きたい。
 深夜の江戸、千両箱を肩に乗せた盗賊が走るという場面が、時代劇ドラマでよく見られる。この千両箱の重さは、いったいどれくらいだっただろうか。
 千両箱に入っている小判は、時代によって重さや価値が違ってくる。徳川家康が慶長6年(1601)に造らせた慶長小判なら、一両4.76匁(もんめ)、すなわち17.85g。千両なら17.85㎏。千両箱そのものの重さが、5~6㎏といったところだから、千両箱1箱は約25㎏といったところである。そんなものを担いで走ったら、なんだかすぐに息切れしそうである。
 ところが、江戸幕府が発行した小判のなかでも、安政6年(1859)のものは、一両2.4匁(9.0g)。これだと、千両箱は20㎏未満だろうから、まだ走れるかもしれない。
 安政の頃の一両は、現代の価値で換算すると5万円前後なので、1箱なら五千万円を担ぐようなもの。それに比べて、慶長小判が通用していた頃だと、その3倍の15万円前後になろうから、1箱で1億5千万円の大仕事になる。
 吉原の遊女の身請(みう)けに、遊女の体重分の金を払ったというエピソードがある。図版は、寛政3年(1791)に刊行された山東京伝(さんとうきょうでん)作の黄表紙(きびょうし)『九界十年色地獄(くがいじゅうねんいろじごく)』より。この遊女は、千両箱2箱よりは軽かったようだ。この頃の小判なら2箱で50㎏未満だろうから、衣裳などの重さを引くと、遊女の体重は40㎏くらいということになろうか。
 さて、慶長小判と大判は、徳川家康が造らせたものだが、それより先には、豊臣秀吉が天正16年(1588)に天正大判を、文禄年間(1592~96)には金100%に近い金貨(375g)も鋳造している。秀吉の大判は、大坂城で家臣たちが居並ぶなか、功績のあった家臣へ褒賞(ほうしょう)として与えるパフォーマンスのために造った金貨で、通貨が目的ではなかった。それに対し家康は、大判は秀吉と同じく報奨金貨としたが、小判は経済政策を実行するための柱になる通貨として造った。
 通貨である小判は、いくら金貨とはいえ、摩耗したり欠けたりする。そうした欠陥小判(不完全貨幣)はどう処理されたのか。
 両替商(現在の銀行業)を通じて回収し、「足し金」という補修をして完全貨幣にもどし、六角形の中に「本」の刻印を打って再び流通させた。どうしてそんな補修ができたかというと、小判は、叩いて仕上げる鍛造(たんぞう)方法で造られていたからである。
 小判は、金と銀の合金として、棒状に鋳造された地金を適当な長さに切り、いわゆる小判型に槌(つち)で叩いて平らに延ばした(小判に横に凹みのある茣蓙〈ござ〉の目模様があるのは、槌で叩いた跡なのである)。ハサミでカットしながら、何度も重さを量り所定の重さにした。そして、炉火で焼き、食塩で摩擦し、色揚げして完成。鍛造ゆえに、叩いて埋め込むなどの補修ができたのである。
 先に紹介した安政小判は、慶長小判と比べやや小ぶりで、金の含有量は3分の1、厚さは3分の2である。これは、明治の開国前夜、金貨の小判の海外流出がとまらないため、幕府がとった苦肉の策だった。薄かったから、歯の丈夫な人は噛んで曲げられたかもしれない。

遊女と千両箱2箱を秤にかけて、金のほうが重かったので、身請けの相談がまとまる。この千両箱は端が金属でできた頑丈で重いものだ。『九界十年色地獄』(寛政3年〈1791〉刊、東京都立中央図書館加賀文庫蔵)より。

山東京伝…1761~1816.江戸後期の戯作者(げさくしゃ)・浮世絵師。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)の第一人者。吉原に精通し、遊女を妻とした。

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