第26回 銭の話

 お金の話をもうひとつ。
 江戸時代、金銀の高額貨幣のほかに、銅や鉄でつくられた「銭(ぜに)」が少額貨幣として使われていた。まん中に穴があいている丸い銭は、紐(ひも)や緡(さし)で束ねられるようになっていた。銭形平次が投げたのもこれで、四文銭(しもんせん)である。
 慶長13年(1608)の暮れの12月19日、江戸幕府は、人びとが使っていた銭「永楽通宝(えいらくつうほう)」の通用を禁止した。江戸幕府が樹立してから5年後のことだった。じつは、その永楽通宝というのは、もともと中国(明の時代)で鋳造発行された銭だった。今でたとえるなら、中国の通貨「元」や「角」がそのまま日本で使われていたようなものである。さしずめ銭は少額だから、「角」を使っていたというところだろうか。
 永楽通宝は古くから使われており、『太平記』や『徒然草』には、銭にまつわる話がしばしば登場する。だが、人びとがそれをどのように使用していたのかは、残念ながら具体的にわかっていない。
 日本人は、中国から漢字を移入しても、簡略化し平仮名やカタカナを作り、新たな文化として自立させたのに比べ、経済の面では中国の銭をそのまま使っていた。正確に言うならば、上質な貨幣であった明の永楽通宝が大量に日本へ移入されると、京都をはじめ日本各地で大量に模造銭(ニセ銭)の永楽通宝が鋳造され、流通していたということなのである。
 この和製の銭は、質が劣るところから「鐚銭(びたせん)」と呼ばれた。「鐚」は「金」と「悪」を合わせた国字。「ビタ一文(いちもん)だって渡さねえ」などというセリフにみえる鐚銭である。
 江戸幕府の初期の貨幣政策は、この鐚銭を追放するために知恵を絞り続けたともいえる。永楽通宝1000文に対し鐚銭4000文を交換レートにして、小判一両につき永楽通宝1000文、鐚銭4000文を為替レートと定め、永楽通宝の通用を禁止し、回収を急いだ。そしてついに、寛永元年(1624)、江戸幕府は上質な通貨「寛永通宝(かんえいつうほう)」を鋳造発行することになる。
 奈良時代の「和同開珎(わどうかいちん〈ほう〉)」は、日本で初めて流通した銭であるが(708年、和銅元年に発行)、それから平安時代の天徳2年(958)に乾元大宝(けんげんたいほう)が発行されるまで12種類の銭(これを「皇朝十二銭〈こうちょうじゅうにせん〉」という)が貨幣として鋳造発行された。それ以来、日本の中央政府が久々に銭を発行したのが寛永通宝であり、約660年ぶりのことであった
 その結果、寛永通宝が市場を席巻し、なんと戦後の昭和28年(1953)まで通用していたことは、年配の人なら記憶されているだろう。
 寛永通宝は上質な貨幣だったことから、こんどは、清王朝時代の中国で通用することになるのだから、歴史はわからない。また同時に、イギリスの財政家・グレシャムが唱えた「悪貨は良貨を駆逐(くちく)する」という「グレシャムの法則」も、「良貨の寛永通宝は鐚銭を駆逐した」というわけで、良貨が悪貨を駆逐し、日本ではこの法則を逆転させていたのである。

お金は天下の回り物ということで、両替商がいる店先、銭の母親から姉と弟の銭が引き離され、旅に出て、さまざまな目に遭ったのちに再会するという話。安寿(あんじゅ)と厨子王(ずしおう)の話のをふまえている。江戸後期の戯作者(げさくしゃ)・唐来参和(とうらいさんな)の黄表紙(きびょうし)『再会親子銭独楽(めぐりあいおやこのぜにごま)』より。

グレシャム…1519~1579。エドワード六世、エリザベス女王(一世)に仕えた王室財務官。「グレシャムの法則」を提唱して、貨幣の改鋳に努力した。

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