第27回 紅葉狩りと吉原

 今年はいつまでも暑さがつづいたが、やっと涼しくなってきた。これから一気に秋が深まり、紅葉も見頃になることだろう。
 秋の行楽といえば、紅葉狩(もみじが)りである。江戸の紅葉狩りでは、浅草竜泉寺町の正燈寺(しょうとうじ)と、品川の海晏寺(かいあんじ)が双璧(そうへき)だった。どちらも遊里は目と鼻の先、紅葉狩りを口実に登楼するのが江戸っ子たちであった。
 図版は、正燈寺の紅葉狩りの様子を描いたものである。二人づれの男性たちや、お供をつれた武家もいる。女性たちの一行も見物に来ている。向こうには吉原独特の屋根が見えており、すぐそこに吉原があったことがわかる。土手を駕籠(かご)がゆく。
 遊里を舞台にした短編小説に洒落本(しゃれぼん)というものがあり、その開祖と称される『遊子方言(ゆうしほうげん)』(明和7年〈1770〉刊)にも、正燈寺の紅葉狩りが登場する。柳橋で自称通り者(通人)、じつは半可通(はんかつう、通人ぶった人)と若旦那がばったり出会うところから始まる。通り者は若旦那を正燈寺の紅葉狩りに誘い、紅葉狩りはそっちのけで吉原の引手茶屋(ひきてぢゃや)に落ち着く。しかし、ここで通り者は聞いた風(ふう)の半可通であることがバレる。それにもかまわず二人は登楼し、ウブな若旦那はもてるというわけで、以来、案内する者の成果は思わしくなく、ウブな青年がもてるのが洒落本のパターンとなる。
 どこかで聞いたようなストーリーだと思われるだろう。落語通の方ならすぐにピンとくるはずだ。先代の八代目桂文楽(かつらぶんらく)の十八番(オハコ)だった落語「明烏(あけがらす)」は、この洒落本のパターンを踏襲したものであった。落語では、浅草寺の裏手のお稲荷さんにお籠(こ)もりに行くとしているが、江戸時代では、正燈寺の紅葉狩りが登楼の口実なのである。
 落語の「明烏」は、源兵衛と太助がマジメ一方の若旦那をつれて吉原の大門(おおもん)をくぐり、ウブな若旦那は初会(しょかい)から大もてにもてるという筋である。とても流行(はや)っているお稲荷さんがあるからお籠もりに行こうと若旦那は誘われるわけだが、そこが吉原だとはつゆ知らず、もちろん大門をくぐったことのない若旦那には馴染(なじ)みの遊女がいるはずもない。
 ちなみに、「初会」とは、引手茶屋で遊女を指名予約し(先に客が居る場合は、貰いをかけるといって予約する)、遊女屋へ出かけ初対面となり(昔は揚屋〈あげや〉でおち合った)、相方を決める儀式である。座敷へ遊女がやってきて、まず主賓の客が盃(さかずき)で一杯飲んだあと遊女へ盃を差すのだが、遊女が断らずにそれを受けて客へ返すと、今夜の遊びはOKということになる。
 ところで、落語「明烏」に出てくるお稲荷さんは、いったいどこにあったのだろうか。桂文楽は2月の初午(はつうま)の日として演(や)っていたから、どこのお稲荷さんでもいいことになるが、江戸時代に大変流行ったお稲荷さんだとすると、吉原に隣接する浅草中田圃(なかたんぼ)の柳河藩(福岡県柳川市)の下屋敷にあった太郎稲荷かもしれない。享和3年(1803)に霊験あらたかだと大流行して、その後もう一度、慶応3年(1867)にも流行する。この幕末の太郎稲荷あたりがヒントになったかとも思われる。

正燈寺の紅葉狩りの様子。明治になると、紅葉の樹が少なくなってかつての賑わいは失われたという。『絵本吾妻抉(えほんあずまからげ)』(寛政9年〈1797〉刊)より。

正燈寺…東京都台東区竜泉にある臨済宗妙心寺派の寺。

海晏寺…東京都品川区にある曹洞宗の寺。

『遊子方言』…田舎老人多田爺(ただのじじい)作。吉原を舞台とする遊びを、洒落た会話文で描いている。

八代目桂文楽…1892~1971。落語家。明快な語り口とたくみな人間描写の芸を完成させ、戦後の名人のひとりとして古今亭志ん生と並び称された。その住まいの上野黒門町にちなみ「黒門町の師匠」と呼ばれた。

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