第31回 江戸の宝くじ・千両富

 今年の年末ジャンボ宝くじは、前後賞を合わせて6億円。宝くじ売り場の長蛇の列に並んだ方も多かろう。大晦日の抽選で、億万長者が何人も誕生する。
 今回は、江戸の宝くじ、千両富(せんりょうとみ)の話である。
 千両富に当たると、今のお金に換算するとどれくらいもらえたのか。江戸前期の1700年頃(元禄時代)は1両が13~15万円くらいだから、1億5千万円くらい。ところが、江戸後期の1800年頃(寛政~文化年間)になると、インフレが昂進していて8万円くらいだから、8千万円といったところになる。
 千両富を1枚買うのに1分=1両の4分の1が相場だったようであるから、8千万円なら4千倍にしかならない。現在の宝くじ10枚(3千円)を買った倍率で計算するなら1千2百万円にしかならないということになり、夢がしぼんでしまうようだ。逆に言えば、富くじ1枚の単価が現在の数万円に相当するほど高かったということになり、それだけ射幸心(しゃこうしん)が煽(あお)られたということでもあろう。
 この千両富をネタにした落語「御慶(ぎょけい)」は、今も正月の寄席の定番となっている。先代の五代目柳家小さんの高座を聴いて記憶している人も多かろう。鶴が梯子(はしご)に登る夢を見て富くじを買った八五郎に千両が当たり、喜んだ八五郎は裃(かみしも)姿で年始に回り、大声で「御慶」と挨拶して、晴れて正月を迎えた。このめでたい噺(はなし)には、小さんのあの丸い顔がいかにもふさわしかった。
 五代目小さんはこの噺のなかで、芭蕉の門人の志太野坡(しだやば)の正月を詠(よ)んだ発句(ほっく)「長松(ちょうまつ)が親の名で来る御慶哉(かな)」を紹介しているが、この発句から思いついて、長松という少年を主人公にした黄表紙(きびょうし)『初登山手習方帖 (しょとうざんてならいほうじょう)』 を書いたのは、十返舎一九(じっぺんしゃいっく) である。
 一九は、『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』8編(文化6年〈1809〉刊)のなかで、弥次郎兵衛(やじろべえ)と北八(きたはち)が大坂坐摩(ざま)神社の富くじを拾い、百両当てたと思い込んで遊廓で豪遊するが、じつは組違いで借金だけが残ってしまう、というドタバタ喜劇を描いている。二十代の青春時代を浄瑠璃作者などをしながら大坂で暮らしていた一九だから、もしかしたら富くじにまつわる実話を聞いていて書いたのかもしれない。
 ところで、小さんの「御慶」は杉の森稲荷での富くじになっているが、マクラで江戸の三富(さんとみ)、すなわち谷中の感応寺(かんのうじ。今の天王寺)、目黒の泰叡山(たいえいざん。目黒不動)、湯島の天神での富くじが、天保の改革で禁止されたと言っている。天保13年(1842)には、江戸の富興行が全面的に禁止ということになった。
 天保の頃の三富は、寺門静軒(てらかどせいけん)『江戸繁昌記(えどはんじょうき)』 にくわしく見える。静軒が実際に見た富興行はすでに千両富ではなく、一の富(一等)が百両の時代だった。一の富の賞金が下がった分だけ富くじ1枚の値段も半分以下になり、富くじはやがて廃止されることとなった。 

富くじの抽選会。木箱の中に番号の書かれた木札がたくさん入っており、棒の先で1枚突いて出すと、それが当たり札となる。(『初夢宝山吹』天明元年〈1781〉刊)

志太野坡…1662~1740。江戸前期の俳人。越後(新潟県)の人。江戸に出て両替店の番頭となり、のちに大坂に移り住む。芭蕉に入門して活躍し、蕉門十哲のひとりと言われる。

『初登山手習方帖』…寛政8年(1794)刊。長松少年が、夢の中で天神様から諭されて、手習いに励んで上達するという話。「長松が~」の句を芭蕉の発句と間違えているのは、一九のご愛敬。

十返舎一九…1765~1831。江戸後期の戯作者。駿府(静岡市)生まれ。『東海道中膝栗毛』をはじめ、ベストセラーを次々刊行する。

寺門静軒…1796~1868。江戸後期の漢学者。常陸国(茨城県)水戸の人。山本緑陰に師事、ついで上野寛永寺で仏典を学び、江戸で私塾を開く。『江戸繁昌記』を刊行したことで幕府から処分を受け、剃髪して各地で放浪生活をおくる。

『江戸繁昌記』…天保3~7年(1832~36)刊。相撲、吉原、両国花火、浅草寺、湯屋、芝居など、江戸市中の繁栄を記し、武士、僧侶、儒者のありようを厳しく風刺したため、天保の改革により絶版処分となる。

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