第39回 デパート商法は、江戸時代からはじまった?

 4月もあとわずか、新入社員の真新しいユニフォームも板についてきた頃である。
 社員のユニフォームといえば、駅員や銀行員などとならんで、デパートの女性店員が思い浮かぶ。子どもの頃、そのユニフォームを見て清楚な印象を抱いたものだが、子どもだけではなく大人もそうだったろう。制服はデパートの戦略でもあった。
 また、デパートといえば、昔の楽しみは食堂であった。以前、江戸っ子を自認する人に、親に三越デパートへ連れて行ってもらうと、食堂で御子様ランチを食べるのが楽しみだったと言われたことがある。戦後の地方生まれの自分も、デパートの食堂へ行くのは嬉しかったと答えると、「戦前の東京のデパートの話ですよ」と、自慢げに懐かしそうに言い返された。
 この「デパートに食堂」というのは、江戸時代の呉服店からはじまったことである。
江戸の川柳に、次のようなものがある。

   盗人(ぬすっと)にあつて三井の飯を喰ひ
     (『誹風柳多留』10編、安永4年〈1775〉刊)

 三井とは三井呉服店(越後屋=三越デパート)のこと。泥棒に入られて着物をごっそり盗まれてしまい、仕方なく三井呉服店へ着物を誂(あつら)えに行くと、おなじみのお得意様だったので、昼食の接待を受けることになったという句意である。
 大店(おおだな)の呉服店に食堂があったのは、明治になってデパート商法が普及してからではなく、江戸の昔からあったことなのである。御子様ランチまではなかったろうが。
 戯作者(げさくしゃ)の曲亭馬琴(きょくていばきん)も潤筆料(原稿料)などで稼いでいたせいか、呉服屋の上得意であったようで、『曲亭馬琴日記』には、妻と孫を連れて大丸呉服店へ買い物に行ったと見える。

お百・太郎同道にて大伝馬町大丸へ、おさち宮参(みやまいり)衣服、其外(そのほか)とも買物罷越(かいものまかりこし)、大丸にて昼飯食べ

(天保4年〈1833〉11月8日)

 大丸呉服店(大丸デパート)でも、なじみの顧客には昼食をサービスしていた。
 とくに大丸呉服店の場合、荷商いも盛んで、上顧客の家に最新流行の反物(たんもの)を持参して顧客の購買意欲を高めていたのである。今で言えば、デパートの外商部といったところであろう。現代のデパート商法は、海外から来た新しい商法ではなく、何のことはない、江戸時代からの呉服屋商法として存在していたのである。
 呉服屋の店頭では、流行の反物が引き立つように店員たちが地味な着物を着ていたのは、客の注目を集める現代のデパートガールのユニフォームとは趣が違うが、ひとつの商法である。図版に見えるような、顧客の家を回る店員の場合も、流行の反物を上手に着込み、客の目を引く商売をしていたのである。 

一夜で三百両使ってもよいと言われた女房が、日頃着てみたいと思っていた着物をこしらえようと、呉服屋(大丸)を呼び出して、あれこれ反物を見ているところ。山東京伝(さんとうきょうでん)作の黄表紙(きびょうし)『江戸春一夜千両(えどのはるいちやせんりょう)』(天明6年〈1786〉刊)より。
 

曲亭馬琴…1767~1848。江戸後期の戯作者。代表作に、長編の読本(よみほん)『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』など。

ほかのコラムも見る