第42回 ところてん(心太)売り

 江戸に暑さがやってくると、「ところてん売り」が街中を歩いた。その売り声は、「ところてんや、てんや」。この売り声を詠(よ)んだ川柳がある。

      心天(ところてん)売は一本ン半に呼び
       (『誹風柳多留』91編、文政9年〈1826〉刊)

 ところてんを数えるのを1本、2本と言ったようで、呼び声が一度と半分であることをうがった句である。
 図版を見てほしい。ところてん売りが、ところてんを1本、ところてん突きで突いて客の皿に出しているところである。荷台の上には皿がのせられ、その下には醤油の徳利やところてんを入れた桶がある。左に書かれた文字に「せうゆをおいれ、からしもだ」とあり、これから客がところてんに醤油をかけて辛子も入れて食することがわかる。
 江戸では調味料として醤油が普及しており、ところてんに醤油をかけて食べるのが一般的になっていたようである。今では、スーパーで買うパック詰めのところてんには酢醤油のたれに辛子、青海苔やゴマまで付いているものもあり、さっぱりした夏の味覚となっている。
 所や時代が変われば味付けも変わるわけで、幕末近くの上方生まれの喜多川守貞(きたがわもりさだ)は随筆『守貞謾稿(もりさだまんこう)』で、京都や大坂では砂糖をかけて食べ、ところてん1箇が1文(もん)で、江戸では白糖(精製した砂糖で贅沢品)か、醤油をかけて食べ、1箇が2文だと伝えている。今でも関西では、ところてんに甘い蜜をかけて食べるというが、江戸時代以来の食べ方である。
 ところで、「ところてん」をどうして漢字で「心太」と書くのだろうか。
 ところてんの語源説については百花繚乱(りょうらん)の呈で決定打はなさそうなのだが、原料のテングサ(天草)を凝固させて作るところにちなみ付けられたことは間違いないようだ。
 凝固させて作るので、ココル(凝)とかコル(凝)と呼ばれ、ココロ(心)と同じ派生であることから「心」の字があてられたとは諸説の説くところである。
 問題は「太」のほうで、もともと平安時代頃にはココロフトと呼んでいて「心太」の漢字をあて、その漢字からココロフト→ココロテイ→トコロテンになったという説が面白いが、定説ではない。
 テングサのテン(天)と合体してココロテン(心天)とも呼ばれることもあったとの説にも耳を傾けると、どれを採っていいか迷うばかりである。
 「心太」の読みは、ひと昔前の大学生の就職の一般教養試験によく出題されていた。かつて団塊の世代が大学生になった頃、日本の大学は入ってしまえば「ところてん方式」でだれもが卒業できると言われ、言い得て妙だと思ったものだが、今の大学では、ところてん(入学者)を鉦(かね)や太鼓で呼び集める時代になった。

右のところてん売りの体が「ところてんうり」の文字で描かれている。「文字絵」を集めた『新文字絵づくし』(明和3年〈1766〉刊)より。 

喜多川守貞…1810~?。江戸後期の風俗史家。著書の『守貞謾稿』は、江戸時代の風俗をまとめた大著。前集30巻、後集4巻。天保8年(1837)から書き始め、嘉永6年(1853)に成稿。

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