第48回 遊女瀬川のファッションセンス

 今年の9月5日は、旧暦でいうと8月1日、八朔(はっさく)にあたった。八朔の日の吉原の行事については、23回「八朔と吉原」を参考までにご覧戴きたい。
 元禄2年(1689)頃から、吉原のメーンストリートである中の町通りで大見世(おおみせ)を張っていた遊女屋の松葉屋が名代(なだい)の看板遊女としていたのが「瀬川」である。瀬川は初代から六代が著名だった。
 初代瀬川は享保7年(1722)4月に吉原で仇討(あだう)ちをしたという伝説が残されているが、これは少し怪しい伝説で、瀬川の名跡が大きくなってから作られたものであろう。
 松葉屋の看板遊女たちは、八朔の日には三枚重ねの白無垢(しろむく)の着物を着用する習わしで、その次の位の遊女たちは二枚重ねの白無垢であった。そして、その白無垢の着物は遊女屋の主人が遊女に与える仕着せではなく、遊女の自前の着物であったという。
 看板遊女の瀬川ともなれば日常着る着物もほとんど自前で、図版に見える右側の立ち姿の瀬川(六代目)も、自分のファッションセンスによって誂(あつら)えた着物だったろう。
 この図版は天明4年(1784)春に蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)から出された北尾政演(きたおまさのぶ)こと山東京伝(さんとうきょうでん)の画による『新美人合自筆鏡(しんびじんあわせじひつかがみ)』のひとコマである。瀬川の左上に書かれている文字は、本のタイトルに示す通り瀬川の自筆の文字であり、達筆の評判高いそれは、現在の書道コンクールに出しても見劣りはしなかろう。
 この『新美人合自筆鏡』は、前年天明3年9月に蔦屋が吉原入口近くから通油町(とおりあぶらちょう)に移転、そこに本屋耕書堂の本店を構えることになったのを祝って山東京伝が「青楼名君(せいろうめいくん)自筆集」と名づけた大判錦絵7種を描き、それを翌年春に絵本一帖に仕立てて刊行したものである。
 六代目瀬川は、天明2年4月に名代を継ぐと、一年半後の翌3年秋には幕府の弓弦(ゆづる)御用達商人岸本大隅(浅田栄次郎)に落籍され、浅草観音の地内にお妾(めかけ)さんとして囲われたようである。まだ二十歳前後の若いお妾さんとは、もったいない話だと思うのは現代の感覚であるようで、当時は年棒をもらって女性が妾奉公する時代でもあった。
 まさに、田沼時代の最盛期でバブル経済のピークの時代。絢爛(けんらん)豪華に遊女たちが妍(けん)を競った時代である。先代の五代目瀬川も、安永4年(1775)秋に名代を継いですぐ、その年の暮れには鳥山検校(とりやまけんぎょう)に落籍されている。
 この鳥山検校は高利貸しグループのボスで、あまりに悪辣(あくらつ)な商売だったので処罰されている。今風に言えば、ヤミ金融のボスに身請けされたようなもので、カネで廓(くるわ)に売られカネで廓から請け出され、女性がカネに翻弄(ほんろう)されるのも吉原の世界だった。落籍後の瀬川をモデルに悲劇のヒロインとして描く洒落本(しゃれぼん)『傾城買虎之巻(けいせいかいとらのまき)』は安永7年に刊行されている。 

右が六代目瀬川。自筆は「章台折楊柳、春日路傍情 瀬川書」。長安の遊里の風情を描いた唐詩より。(『新美人合自筆鏡』天明4年〈1784〉刊) 

八朔…天正18年(1590)の8月1日に、徳川家康が初めて江戸城に入ったことから行われるようになった、武士たちが登城して将軍家へ祝辞を申し述べる行事。

蔦屋重三郎…1750~97。江戸中期の版元。通称、蔦重。洒落本・黄表紙(きびょうし)などを次々に出版。歌麿や写楽の浮世絵の版元としても名高い。

山東京伝…1761~1816。江戸後期の戯作者(げさくしゃ)。浮世絵師としての名は北尾政演。黄表紙、洒落本作者の第一人者。

田沼時代…江戸中期、十代将軍徳川家治(いえはる)の側用人(そばようにん)・老中(ろうじゅう)として、田沼意次(たぬまおきつぐ)が政治の実権をにぎった明和4年(1767)から天明6年(1786)までの時期。

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