第49回 芋名月

今年の仲秋(ちゅうしゅう)の名月(旧暦の8月15日の月)は9月19日。首都圏では、中天に浮かぶ丸い大きな月を眺めて夜を過ごした人もいただろう。
 旧暦では7月、8月、9月が秋の季節ということで、真ん中の8月の月であることから仲秋(中秋)の名月と呼びならわした。明るい月だから「明月」と詠(よ)んだのは中国の古い漢詩で、日本の漢詩でも「明月」と詠む。日本の和歌や俳諧では漢語を使うのをタブーとしたために、8月15日の月を「名に高き月」と称し、「名月」の語を使うようになった。

 名月といえば芭蕉の句、
 名月や池をめぐりて夜もすがら

を思い出し、水に映った仲秋の名月を眺めた人もいたことだろう。
 俳諧で名月を詠むのは俗っぽいし、陳腐だと言う向きもあるだろうが、俗でもかまわず、名月の句作りの俳人といえば、小林一茶が代表格であろうか。

名月をとつてくれろと泣く子哉(かな)

 この句は『おらが春』に収められていて、一茶らしい句だと親しまれている。丸い煎餅(せんべい)のような空の月を欲しいと、ねだる子どもの様子が目に浮かぶ。まだ、長男千太郎の生まれる前なので、いかにも子ども好きの一茶らしい句である。これとは別に、

 名月や膳に這(はい)よる子があらば

という句もある。文政2年(1819)6月21日、生まれてわずか13か月で早世した長女の「さと」が生きていれば、という思いを込めた句である。月見に供えるお膳のところへ、可愛さ盛りの娘が生きていれば、ハイハイして寄ってくるだろうという句意である。滑稽味のある一茶の句の中にも、彼の暗い境遇を滲(にじ)ませながら詠まれたものが結構多い。
 名月といっても、旧暦の9月13夜の月も名月と呼ぶ。これは別名「栗名月」。とれた栗を月に供える風習が江戸時代からあり、それに対して仲秋の名月は別名「芋(いも)名月」。

 現代人では、芋といえばジャガイモやサツマイモ、山芋がピンとくるだろうが、江戸っ子のあいだでは、芋といえば里芋のことであった。山芋が滋養強壮力があることは知られているが、里芋も滋養があると江戸っ子たちは信じていたようである。

 土用見舞(立秋前の暑中見舞)として、収穫されたばかりの里芋を芋籠(いもかご)に入れてお客が吉原の妓楼(ぎろう)などへ贈り物する風習があった。親芋と小芋、そして孫芋には塊(かたまり)の形状で多収穫の八頭(やつがしら)があり、里芋は子孫繁栄の縁起物としての贈り物でもあった。

芋たちが地獄でいろいろな目に合うのを朝比奈(あさひな)が巡って見て歩くという、山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)『一百三升芋地獄(いっぴゃくさんじょういもじごく)』(寛政元年〈1789〉刊)より。ここは賽(さい)の河原。地蔵が芋たちに、「芋籠へ入れて土用見舞につかわせる」と言っている。

小林一茶…1763~1827。江戸後期の俳人。信濃の人。江戸に出て俳諧を学び、全国行脚(あんぎゃ)の旅に出る。晩年は故郷に帰って俳諧の宗匠となる。日常生活を平明に詠む俳風を確立させた。

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