第55回 大福と才蔵市

 大福(だいふく)とは、餡(あん)を餅(もち)で包んだ「大福餅」のことである。大福餅は江戸時代にすでにあったが、その歴史はあんがい新しい。
 今では、イチゴを大福餅の餡の中に入れたイチゴ大福なるものもあり、イチゴと大福餅ではミスマッチかと思いきや、これが以外とマッチするから人間のアイディアは面白い。ただ、甘い餡と少し酸っぱいイチゴの取り合わせだからいいのであって、塩餡にイチゴだったらどうだったか。大福餅が砂糖の餡になったのも、歴史はさらに浅い。
 江戸時代の大福餅は、現在のものとはだいぶ違ったものであった。
 天保元年(1830)ごろ成立した『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』という随筆には、大福餅は、はじめは「鶉焼(うずらやき)」「鶉餅」とか「腹太(はらぶと)」と呼ばれて、餡も塩餡であったと書かれている。鳥の形をした餅で、腹が丸くふくれているところから腹太などとも称されたわけで、砂糖を入れない塩味の餡を餅皮でくるんだものだった。江戸の中橋(なかばし)広小路(中央区八重洲)あたりの屋台で売られていた手軽に食べる餅だったという。
 そして、すでに寛政年中(1789~1800)には、冬場の夜などにも売り歩くようになっていて、荷商いの籠(かご)の中へ火鉢と焼き鍋を入れて、鳥の形ではなく、丸い形の餅を蒸し焼きにして温かくして食べさせていたようだ。『柳多留(やなぎだる)』には、「大福へ紅(べん)がらで書く伊勢屋の賀」とあり、めでたい事のある家から頼まれると、お祝いに配る大福餅に紅がらで「寿」の赤い文字を書いて売ったりもした。
 江戸時代の大福餅は、「福」を呼ぶめでたい名前の餅にして、お祝いに使ったり、冬には餅を温かくして売ったりした。街中を売り歩くか、簡単な屋台店で売られていた大福は、ひとつ四文(もん)が相場であった。
 図版は、『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』に描かれた大福餅屋の屋台である。店先に大福餅が並べられ、奥に湯気がたっている。屋台の前を塩鮭や門松(かどまつ)をかついだ人が行き交い、右には提灯(ちょうちん)を持った人々が歩いているから、歳末の夕暮れの風景であると思われる。奥の店のほうには長い笹竹や松の枝が立てかけられ、蜜柑や、うらじろなどが並べられている。
 ここは日本橋南詰(みなみづめ)であり、多くの人が集まっているのは、今まさに「才蔵市(さいぞういち)」が行われているところである。「才蔵」とは、正月を寿(ことほ)ぐ門付芸(かどづけげい)「三河万歳(みかわまんざい)」の「太夫(たゆう)」の相方(あいかた)のことで、毎年暮れ、三河から江戸にやってくる太夫は、才蔵の希望者が集まるこの「才蔵市」で相方を雇い、「才蔵囃(はや)して参れ」と掛け合いで家々を回って新年を寿ぐ。烏帽子(えぼし)をかぶり刀を差しているのが太夫で、それと対面して話しているのが才蔵。
 歳末のお江戸日本橋界隈の活気がただよう光景である。

画大福餅の屋台と才蔵市の様子。『江戸名所図会』(天保5年〈1834〉刊)より。右上に「三河万歳 江戸に下りて毎歳極月(しはす)末の夜 日本橋の南詰に集りて 才蔵をえらみて抱(かか)ゆるなり 是を才蔵市といふ」と書かれてる。 

『嬉遊笑覧』…江戸時代後期の随筆集。12巻、付録1巻。喜多村信節(のぶよ)著。江戸時代の風俗習慣、歌舞音曲などについて私見を述べたもの。

『柳多留』…川柳集『誹風柳多留』のこと。167冊。明和2年(1765)~天保11年(1840)刊。24編前半までは川柳の考案者・柄井川柳、以下5世まで代々の選集。挙げた句は第67編(文化12年〈1815〉)に収録。

『江戸名所図会』…江戸の地誌。7巻20冊。斎藤幸雄・幸孝・幸成(月岑〈げっしん〉)の親子三代で完成。寛政から天保にいたる江戸やその近郊の名所が収録されている。

三河万歳…愛知県の三河地方を本拠地として発展した万歳。烏帽子に紋付の太夫と鼓(つづみ)を打つ才蔵とが、正月に家々を回り祝言(しゅうげん)を述べた。現在、国の重要無形民俗文化財。

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